第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 80 05.08.08 |
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10) 久留米俘虜収容所(その1) |
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今回から国内俘虜収容所各論に入る。大正3年中に開設された収容所は、日露 戦争時のロシア俘虜収容所なども参考にされ、その多くは各地の寺社や赤十字施 設等が利用された。そして後には、陸軍用地に新築された大規模なバラック収容施 設や陸軍管轄の施設等に統合整理されている。統合後の収容所もあわせると、管 轄地の数では全国で16ケ所の収容所数となるが、ここでは各地収容所の変遷を “郵趣”という視点から取上げ、貴重な写真や資料なども随時紹介していきたいと思 う。
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図293 |
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(梅林寺) 京町の臨済宗梅林寺(図293)には、大正3年10月9日に日本に護送された青島ド イツ俘虜第一陣55名のうち、グラボー中尉、他少佐の計2名が収容(10日)された。 この施設が開設されたのは、大正3年10月6日より11月22日までの約一ケ月半であ る。日独戦争の最初期俘虜郵便として、大正3年11月12日付のグラボー中尉差出 便(図281)が知られている。 |
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図294 |
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(大谷派久留米教務所) 日吉町の大谷派久留米教務所(図294)には、青島ドイツ俘虜第一陣のうち下士 卒53名が最初に収容され、その後青島陥落に伴い追加収容されている。この施設 が開設されたのは、大正3年10月6日より大正4年6月8日(久留米収容所統合)迄で ある。 |
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図295 |
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図295は、大正3年11月23日久留米発、門司経由、11月28日青島の第三野戦郵 便局着。“俘虜郵便”表示印、“検閲済”印ともに最初期の朱色。大正3年9月28日に 浮山付近で俘虜となった第一陣俘虜、第三海兵大隊第五中隊のトラウトマン(Franz Trautmann・5K/VSB)より差出されたもの。 |
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図296 |
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図296は、大正3年12月19日久留米発、中国の塘沽駐屯ドイツ軍宛。“俘虜郵便” 表示印は赤色、“検閲済”印は朱色。大正3年10月2日に四房山付近で俘虜となった 第一陣俘虜、海軍東亜分遺隊第一中隊のヴィンクラー(Johann Winkler・1K/OMD) より差出されたもの。 |
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図297 |
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図297は、大正4年(1915年)4月26日ベルリン発、敦賀経由、6月1日久留米着。大 谷派久留米教務所が閉鎖(6月8日)される直前の到着である。第三海兵大隊第一中 隊のフィンスター(Georg Finster・1K/VSB)宛の到着便。 |
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