第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 63 04.07.06 |
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02) 俘虜情報局(その3) |
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俘虜情報局発信の公的俘虜郵便では、情報局製の専用封筒が各種使用されて いる。ここでは代表的な専用封筒と俘虜郵便表示印を紹介したい。 俘虜情報局の専用封筒には、仏語で印刷された俘虜情報局の表示を見ることが 出来る。“EMPIRE DU JAPON, BUREAU DE RENSEIGNEMENTS SUR LES PRISONNIERS DE GUERRE, TOKYO” |
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図242 “俘虜郵便”表示印 |
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図243 初期型2種“Service des Prisonniers de Gurre” |
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図244 後期型“Service des Prisonniers de Gurre” |
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図245 |
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大正4年(1915年)7月13日、俘虜情報局発信、ドイツ・フランクフルト赤十字社俘虜 委員会宛の俘虜郵便(図245)。ドイツ俘虜に関する報告、照会等の為に送付された ものであろう。俘虜情報局発信の郵便物の引受局は、陸軍省最寄の麹町郵便局で あった。 |
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図246 |
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大正5年(1916年)7月6日、俘虜情報局発信、スイス国際赤十字委員会俘虜部宛 の俘虜郵便(図246)。イタリア・ミラノ郵便局で検閲され、検閲封緘紙と同局の検閲 印がみえる。この時期の欧州宛郵便物として、数例が記録されている“西廻りルー ト”便の可能性が高い。(日独戦争第一部 8)その4参照) 封筒上には、青鉛筆で“Wien”の表示が書き加えられている。オーストリア俘虜関 係の報告、照会の為に送付されたと考えられ、その後、ジュネーブのスイス赤十字 社よりオーストリア・ウィーンの赤十字社迄、まとめ便として転送された可能性もあ る。 ここで、この時期のドイツからの俘虜郵便逓送ルートについて、興味深い資料を見 つけたので記録しておきたい。大正5年2月26日に、外務大臣幣原喜重郎より陸軍 次官大島健一に宛てた報告である。 (在本邦獨逸俘虜宛郵便物經路ニ関スル件・欧受第242号、政送第41号) 今般在本邦米國大使ヨリ獨逸國外務省ノ告示ニ依レハ同國ヨリ俘虜ニ宛テタル郵 便物ハ總テ瑞典及露國經由、又ハ瑞西及海路經由ノ通路ニ依リ居リタル處目下西 比利亜經由ノ分ハ差止メラレタルニ依リ當分ノ處在本邦俘虜宛郵便物ハ總テ瑞 西、和蘭及米國經由ニ限ルコトトナリタル趣ナル旨ノ覺書ヲ差出シ右ハ單ニ全然帝 國政府ノ参考迄ニ通報スルニ止リ獨逸國政府ヨリノ告示トシテ各俘虜へ傳達ヲ要求 スル次第ニハ無之旨口頭ヲ以テ説明スルト同時ニ只俘虜中ニハ近來暫ク獨逸本 國ヨリ通信ニ接セサル趣ヲ以テ雑惑ヲ抱キ居リタルモノモ有之由ノ處右通信杜絶ノ 原因ハ今回ノ獨逸外務省告示ニ依リ〜(抜粋) ドイツ外務省告示が、在日米国大使より報告された。「日本のドイツ俘虜宛郵便物 は、スウェーデン・ロシア経由のシベリア経由便、又はスイス及び海路経由で運ば れていたが、現在シベリア経由が差止められているので、当分の間スイス経由、オ ランダ・米国経由に限る」これは、日本政府の参考に報告したもので、ドイツ政府よ り各俘虜に伝達を要求されたものではない。最近郵便物を受取っていない俘虜が 不信に思っている報告もあるので、その理由がドイツ外務省告示で察知できると、 説明すべきものである。(要約) |
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図247 図248 |
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大正6年(1917年)7月11日、俘虜情報局発信、米国ニューヨークの中南米商業会 社に宛てた指名俘虜宛金券交付通知である。通知書(図248)は、俘虜情報局の専 用便箋が使用され、事務用証印が押されている。6月8日付の送金98円28銭を7月 11日久留米収容所収容俘虜 Adolf Klumpp(2K/VSB・第三海兵大隊第ニ中隊) へ転送交付した事を通知している。俘虜宛の義捐金、贈与及救恤品等の中継、検 閲等も俘虜情報局の重要な活動の一つであった。これらは俘虜情報局日誌にも記 録されているが、実際に送られた通知書類は非常に貴重な資料といえよう。 |
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