日独戦争と俘虜郵便の時代 16 03.02.26. |
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8) 特務艦隊の活躍 地中海編(その4) |
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図47 図48 |
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岸中尉は、引続き駆逐艦松にいたが、1918年(大正7年)3月末に第二特務艦隊所 属駆逐隊の隊名の変更があった。第十、第十一、第十五の駆逐隊が各々第二十 二、第二十三、第二十四となり、駆逐艦松は第二十三駆逐隊所属となった。岸中尉 はその後も、寄港地で買ったと思われる絵葉書等(図47アレキサンドリア、図48マル セイユ)を故郷に送っている。 西部戦線において同年4月9日よりドイツ軍は大攻勢を開始する。エーヌ河沿い にフランス軍を撃退し、5月末にマルヌ河まで到達した。7月にはランス西南マルヌ 河畔及びシャンパーニュ方面へ50個師団で攻撃を行い、パリへ向け進撃を続けた。 これら西部戦線の危機を救う為に、中近東・アフリカ方面に展開していた連合軍部 隊の西部戦線投入が必要となった。それにはアレキサンドリアに集結する十数万も の兵員を、ピストン輸送でマルセイユまで輸送しなければならない。第二特務艦隊 では、その大船団の護衛を受け持つ事になり、同年4月11日より7月17日まで集中 的にアレキサンドリア-マルセイユ間でイギリス大輸送船団の護衛(5往復・計58隻・ 兵員約十数万人)を行い、西部戦線の兵力増強を支えた。これに力を得た英仏軍は ソンム河及びオアーズ河方面よりドイツ軍を追撃、8月に入り漸く形勢を逆転する事 に成功したのである。 |
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図49 |
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図49は、岸中尉が大船団護衛作戦終了後の7月25日付で差出した軍事郵便で ある。横浜局気付第二十三駆逐隊松となっていて、引受局は横浜で 櫛型・横濱/7.9.12./后3-4が押されている。文面には、「この地中海での生活も慣れ たので心配せずに、また、まもなく任務交代で十一月当地発十二月下旬には帰朝 できそうだ」と記してある。岸中尉は、11月1日付で、駆逐艦松から第二特務艦隊司 令附にもどり、帰国命令を受け一年九ヶ月にのぼる任務を終えることになった。 1916-18年の一般の欧州航路と郵便路線についても少し触れておきたい。戦時下 の日本郵船の欧州航路(逓信省命令航路・隔週・11隻+臨時船)は、1915年12月31 日より1918年12月4日まで、地中海の危険性を考慮し、従来のスエズ経由(横浜-ア ントワープ線)を中止して喜望峰迂回コース(横浜-ロンドン-リバプール線)をとってい た。(この時期、英国PO便、仏国郵船便等外国船は不定期になり便数は極端に減 少)特に1916年から1917年前半の西廻り欧州宛郵便路線のうち、スエズ経由のもの は極限られたものになっていた。(1916年の日本差出便としてイタリアのミラノの検 閲印がある例が幾つか知られている)喜望峰迂回イギリス経由、スエズ経由の各西 廻りルート、また米国経由東廻りルート等の欧州大陸での逓送方法の解明は、郵 便物上の情報(宛先国、中継・到着印、所要日数、検閲印等)各国船便の状況、各 国陸海軍の展開状況等を総合して調査しないと難しいだろう。また、シベリア鉄道ル ートは、殆どシベリア指定の書込みとロシアの検閲印等があり識別は容易だが(所 要日数はまちまちで、30日から時に1年以上かかっている例もみたことがある)、宛 先国によっては逓送ルートの解明に苦労する使用例も多い。 スエズ経由便としては、地中海遠征第二特務艦隊への物資、交代兵員等輸送の 必要性から、海軍省命令のもと臨時に日本郵船が1917年8月20日第一船として神 奈川丸をポートサイドまで派遣した。(当然、郵便物も積まれた)その後この臨時ポー トサイド線は、月一回の私設路線として続けられ、スエズ経由の欧州航路再開後の 1918年12月5日に廃止となった。 (図50、この臨時ポートサイド線で運ばれた可能性のある、エジプト宛印刷物) |
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図50 |
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前回紹介した岸中尉の葉書(図46)には「毎度の御通信概ね確実に落手、〜」とあ るので、臨時ポートサイド線も含め地中海への定期的な郵便逓送路は確保されて いたようだ。岸中尉も帰国の際はこのポートサイド線を利用し、日本郵船の春日丸 で帰国している。また、第二特務艦隊護衛のもと日本郵船は、1918年3月31日から 1919年4月までポートサイド-マルセイユ間に臨時の地中海線も開設している。 |
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