第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 61 04.06.16 |
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02) 俘虜情報局(その1) |
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・ハーグ条約 (1907年10月18日署名) (日本1911年11月6日批准、1912年1月13日公布・条約第4号 2月12日施行) 「陸戦ノ法規慣例ニ関スル條約、同付属規則」 (俘虜情報局・付属規則第一款第二章第十四條) 各交戦國ハ戦争開始ノ時ヨリ又中立國ハ交戦者ヲ其ノ領土ニ収容シタル時ヨリ俘 虜情報局ヲ設置ス、情報局ハ俘虜ニ關スル一切ノ問合ニ答フルノ任務ヲ有シ、俘 虜ノ留置、移動、宣誓解放、交換、逃走、入院、死亡ニ關スル事項其ノ他各俘虜ニ 關シ銘銘票ヲ作成補修スル為必要ナル通報ヲ各當該官憲ヨリ受クルモノトス、情報 局ハ該票ニ番号、氏名、年齢、本籍地、階級、所属部隊、負傷竝捕獲、留置負傷及 死亡ノ日附及場所其ノ他一切ノ備考事項ヲ記載スヘシ、銘銘票ハ平和克服ノ後之 ヲ他方交戦國ノ政府ニ交付スヘシ、情報局ハ又宣誓解放セラレ交換セラレ逃走シ 又ハ病院若ハ繃帯所ニ於テ死亡シタル俘虜ノ遺留シ竝戦場ニ於テ發見セラレタル 一切ノ自由品、有価物、信書ヲ収集シテ之ヲ其ノ關係者ニ傳達スルノ任務ヲ有ス (郵便料金ノ免除等・付属規則第一款第二章第十六條) 情報局ハ郵便料金ノ免除ヲ享ク、俘虜ニ宛テ又ハ其ノ發シタル信書、郵便為替、 有價物件及小包郵便物ハ差出國、名宛國及通過國ニ於テ一切ノ郵便料金ヲ免除 セラルヘシ、俘虜ニ宛テタル贈與品救恤品ハ輸入税其ノ他ノ諸税及國有鐵道ノ運 賃ヲ免除セラルヘシ 日本では、大正3年(1914年)8月23日の第一次世界大戦(日独戦争)への参戦に より、「ハーグ条約」に基づき俘虜情報局の設置が行われている。9月19日、大正天 皇により俘虜情報局官制が裁可され(勅令第192号)、9月23日、三宅坂の陸軍省内 に俘虜情報局が開設された。俘虜情報局長官河合操(陸軍省人事局長陸軍少将) のもと、9月25日より俘虜情報局事務が開始され、外務省を通じて米国大使をはじ めとする各国公使館へ俘虜情報局開設が通達された。これより、各国軍、赤十字関 係機関、各国公使館等を情報源とし、欧州をはじめとする該当諸国在留邦人の安 否情報、日本軍及び敵国軍俘虜の情報収集が始まった。 また、敵国俘虜の日本送致に備えて内地の俘虜収容所開設候補地の調査も行 われている。9月26日付の東京朝日新聞記事では、「俘虜が出来たら収容地は何 處か」と題して俘虜情報局の決定を予測し、久留米、大分、松山の名を挙げ、この 時点では「要は左様澤山の俘虜も出来る筈はないから収容所も先づ小規模のもの で間に合うだろう」としている。 10月2日に久留米俘虜収容所所長に樫村弘道少佐が任命され、10月6日久留米 俘虜収容所設置が告示(陸軍省告示第14号)された。(京町梅林寺、日吉町大谷派 久留米教務所が日独戦役最初の国内俘虜収容施設)その後、四千数百名にもの ぼるドイツ、オーストリア・ハンガリー俘虜他が日本に送致され、全国16ケ所の収容 施設の設置に至っている。 ・俘虜取扱規則 (明治37年2月14日陸通22号)(2月17日海達33号) ・俘虜取扱規則 (大正03年9月21日一部規則改正陸達31・32号) ・俘虜郵便規則 (明治37年3月03日逓信省令第13号) ・俘虜郵便為替規則(明治37年3月03日逓信省令第14号) ・俘虜郵便為替規則(大正03年9月14日一部規則改正逓信省令第26号) (俘虜郵便規則) 第一條 本規則ニ於テ俘虜郵便物ト称スルハ俘虜事務ニ關シ俘虜情報局ニ於テ 發受シ若ハ俘虜ノ發受スル内地及外國郵便物ヲ謂フ 第二條 俘虜郵便物ニ關シ本規則ニ定メタルモノノ外ハ總テ内地及外國郵便ニ關 スル一般ノ規定ニ依ル 第三條 俘虜郵便物ハ差出人ニ於テ其ノ表面ニ俘虜郵便又ハ Service des Prisonniers de Guerre ノ文字ヲ記載スヘシ 第四條 俘虜郵便物ハ條約ニ依リ郵便ニ關スル料金ヲ免除セラルルモノトス 第五條 俘虜ノ發受スル書留又ハ價格表記ノ通常郵便物及小包郵便物ノ受領證 ハ之ヲ當該俘虜収容所監督者ニ交付シ又ハ同監督者ヨリ之ヲ差出セシ ム 上記は、“俘虜郵便”の基本原則である俘虜郵便規則である。「ハーグ条約」に基 づき日露戦争時に公布されているが、日独戦争でもそのまま適用されている。注目 したいのは、第一條の“俘虜郵便”の定義であるが、大きく二つのグループに分けて いる。(1)“俘虜情報局”発受の公的俘虜郵便、(2)俘虜の発受する私的俘虜郵 便、である。その他に各国“赤十字社”発受の準公的俘虜郵便等もあるが、これは (1)グループに該当する。 |
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図231 |
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図231は、第一次世界大戦勃発直前の1914年(大正3年)7月19日に、ドイツのライ プチヒで差出された葉書で、ウラジオストック在住のドイツ人ヴェーゼマンに宛てた ものである。シベリア鉄道ルートで無事ウラジオストックに到着(8月初旬)している が、実は受取人のヴェーゼマンはドイツ膠州湾租借地青島守備軍として青島に召 集された直後であった。この時点では、既に第一次世界大戦勃発の為シベリア鉄 道ルートは断絶しているので、返送することも出来ない。(日独戦争第一部(1)参 照)右下に東京の俘虜情報局の角型検閲印があるので、ウラジオストック局ではお そらく配達保留として留置し、青島陥落(11月7日)以降に東京の俘虜情報局へ所在 地調査の為転送されたと考えられる。 ちなみに、ヴェーゼマン(Walter Wesemann)は、海軍東亜分遣隊第三中隊 (3K/OMD)後備上等兵として青島守備に就いたが、青島陥落後は俘虜として福岡 収容所(後に名古屋に移動)に収容されている。 |
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図232 |
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図232は、1915年(大正4年)2月8日に、ドイツのカペルンで差出された葉書で、青 島のドイツ人レヴェレンツ夫人に宛てたものである。中立国経由シベリア鉄道ルート でウラジオストック迄運ばれたと考えられ、日本敦賀局の3月2日の中継印が押され ている。青島は既に日本の暫定統治下にあったので日本局経由となったが、 敦賀 局で“東京俘虜情報局へ問合“と指示が書かれている。青島のドイツ人ということ で、東京の俘虜情報局へ照会されたと考えられる。レヴェレンツ(Lewerenz)という 名の俘虜は姫路収容所に記録があるが、この夫人がその妻かどうかは確認できて いない。 |
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図233 図233裏 |
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図233は、ドイツ・ベルリンの海軍情報局から1915年(大正4年)2月11日に差出さ れた俘虜収容通知である。これは俘虜郵便でなく“Marinesache”(海軍公用便)であ る。「青島にいたヴィーガント(Leopold Wiegand・動員国民軍指揮官陸軍中尉)は、 戦時俘虜として日本の姫路収容所に収容され、今後のヴィーガント宛郵便物は同 地へ“俘虜郵便物”として差出す事」と通知している。宛先はヴィーガント出身地の Flensburgであるので、受取人は彼の親類又は友人等であろう。 |
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