日本切手ノート (46) 16.04.26 |
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★ 大日本帝國郵便切手沿革誌について |
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本年、2004年はオリンピック開催年である。近代オリンピックが初めて開催された のは、1896年のアテネ大会の事であった。同じ年に、郵便史の世界でも特筆すべき 記念誌が、刊行されている。 『大日本帝國郵便切手沿革誌』である。珍本として有名であるが、次回、5月の「タカ ハシスタンプオークション」に出品される。この本については、面白い話が数々語り継がれ ている。 この本は、1896年(明治29年)3月6日に逓信省通信局から刊行された。印刷局で 印刷され、限定500部・非売品・貼付されている切手類は明治4年より27年3月迄の 物であり、主に日本政府高官や外国大使等に贈呈されている。 関東大震災や第2次世界大戦などを潜り抜けて、残存数十冊と言われているが、 贈呈者と拝受した者がはっきり判明している沿革誌は、ほとんど知られていなかっ た。今回、そのような大変貴重な本が発見されたので、紹介しましょう。 |
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見開き表紙(右画像)に仏語らしき文字が認められる。識者に尋ねたところ、「バド コック氏へ我国の郵便切手帳を贈呈。1896年12月24日、ロンドンにて」と書かれて いるとの返答を頂いた。署名の人物を調べて見ると、「K.Den」は当時の逓信省通信 局長・田健治郎氏、「T.Matsunaga」は逓信大臣官房秘書課長・松永武吉氏であっ た。(「K.Tanaka」は不明)。また、拝受した者は「Monsieur Badcock」で、当時のロンド ンポスタルサービスの責任者・J.C.Badcock氏である。 因みに、田健治郎氏は『大日本帝國郵便切手沿革誌』をこの世に送り出した時 の、企画制作担当部署の責任者であった。 田一行は、この年ハンガリーで開催された「万国電信会議」に出席の為訪欧して おり、その途中にロンドンの郵政庁を訪ねて贈呈したものと考えられる。この様に、 贈呈者・拝受した者・贈呈日時が明確な沿革誌は郵便史上、大変貴重なものと言え よう。 田氏に関しては、幾つかのこぼれ話がある。 田健治郎氏は貴族議員男爵であった。ニュースキャスターとして、また、衆議院議 員としても有名だった田英夫氏の祖父である。 明治44年、当時九州炭鉱汽船の社長であった田男爵は、同社役員・竹内明太郎 氏、逓信省技師・青山禄郎氏と共に橋本増治郎氏を援助し、本邦最初の国産自動 車製造メーカー「快進社」が誕生した。後の日産自動車の前身に続くものである。こ こで完成された国産エンジンは功労者3人の頭文字をとって『DATエンジン』(田・青 山・竹内)として、大正3年の東京大正博覧会に出品されている。戦前の国産車の 代名詞「DATSUN」(ダットサン・昭和7年発売)は、試作段階では『DATSON』(ダット の息子)と呼ばれていたという。 また、大正12年、田男爵が台湾総督時代の逸話もある。台湾行啓中の皇太子殿 下(昭和天皇)が、田総督にある花を指差されてその名を聞かれた事があった。田総 督はその花の名を知らなかったが、機転を利かせて「月下の美人と申しましょう か。」と答え、殿下は大喜びされたと言われている。その後、昭和天皇所縁の花とし て、「月下美人」の名が定着したそうな。 |
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