第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 97      07.08.07

14) 似島俘虜収容所(その4)

(将校俘虜の死)

 似島収容所管轄では、収容期間中に9名の俘虜が亡くなっている。大阪収容所の
図386)では、似島収容所最後の死亡俘虜ハルプリッター(大正9年1月21日死亡)
の郵便物を取上げた。今回はその
5日前に似島収容所で亡くなったある将校俘虜
を、貴重な資料と共に取上げてみたい。解放を直前に控えた彼らの死は、仲間の俘
虜たちをどれほど悲しませたのだろうか。


図407

 大正9年1月16日、似島収容所で海軍砲兵隊第五中隊の予備海軍少尉ブリルマイ
アー(Joseph Brilmayer・5K/MAK・Landfrontenartillerie)が亡くなった。俘虜達が用意
した十字架の祭壇のもと安らかに眠っているブリルマイアーの写真が残されている。


図408


図409

 先任将校海軍中佐ハスと海軍大主計アルテルト
(Max Artelt・Marine-Stabszahlmeister)を先頭に、将校俘虜らにより担がれた亡骸
が、厳かな葬列を導いている。葬列の先頭向かって左の髭の将校がアルテルト、右
側がハス中佐。(
図408)
 アルテルトは総督府参謀本部付の海軍大主計で、大阪収容所時代からしばしば
脱走を企て、一度は下関で捕まるまで逃げたこともあった。似島収容所に来てから
も仲間と共に再度脱走を計画したが露見逮捕されている。これにより懲役3年の刑
を受け広島の吉島刑務所に服役していたが、ブリルマイアーの亡くなる
前日の1月
15日
、講和の特赦により釈放されたばかりであった。俘虜仲間から畏敬の念を持っ
て“脱走王”(Ausbrecherkoenigs)と呼ばれた彼の目に、ブリルマイアーの死はどのよ
うに映ったのであろうか。

 
1月17日、東京のランドグラフにもブリルマイアーの訃報が届いている。発信人
はハス中佐で、“ブリルマイアー少尉が今晩亡くなりました。ハス”と
16日付で電報を
打っている。引受局には“Original Office・Ninoshima”と記入され、葵町電信局の欧
文櫛型印が到着印として押されている。非常に貴重な資料といえよう。(
図409)

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