第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 94 07.08.02 |
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14) 似島俘虜収容所(その1) |
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似島収容所 大正6年02月19日 開設 大正9年04月01日 閉鎖 所長 菅沼來中佐 |
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図391 似島俘虜収容所 |
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図392 大阪収容所より移動・撮影日付は2月18日 |
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広島湾・江田島(海軍)の北にある周囲約16キロの小島。似島陸軍検疫所(消毒 所)の跡地に俘虜用バラック6棟を軸に、他各種施設が作られた。島の周囲が板堀 で囲まれたのは、海軍艦船の往来が頻繁だった為。大正6年2月18日より大阪収容 所から移動、宇品を経て翌19日早朝より収容開始。俘虜数約550名、先任将校は 海軍砲兵隊・海軍中佐のグスタフ・ハス(Gustav Hass)。 |
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郵便検閲印は、開設当初から大阪収容所(タイプV)の3文字検閲印(赤印)が引 続き使用されている。(図393) その後、大正8年4月より収容所閉鎖まで長方形の 収容所名入の郵便検閲印(赤印)が使用された。(図394) |
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3文字検閲印の時期では、収容所名入の赤色俘虜郵便表示印が使用されてい る。大阪収容所のタイプを踏襲しており、楕円型(図395)、長方形型(図396)が知ら れている。開設当初から大正8年中頃まで使用されたと考えられる。 |
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図397 |
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図397は、大正7年3月25日宇品局発、海軍砲兵隊海軍中尉のパツィヒ (Conrad Patzig・MAK/Batt.12)差出、板東収容所のゲルケ (Ewald Goerke・3K/MAK)宛の収容所間俘虜郵便。3文字検閲印と楕円俘虜郵便表 示印が押されている。 |
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図398 |
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図398は、大正7年4月30日宇品局発、ビーバー(Fritz Biber・所属不明)差出、ドイ ツ宛。3文字検閲印と長方形俘虜郵便表示印が押されている。 |
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図399 |
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図399は、大正8年5月26日宇品局発、第三海兵大隊第一中隊のヤーン (Otto Jahn・1K/VSB)差出、上海のドイツ人宛。収容所名入検閲印の使用例。 “SDPDG” 紫印も押されている。 |
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