第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 89 06.08.14 |
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12) 福岡俘虜収容所(その3) |
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福岡収容所では、収容所製の各種封皮、葉書が俘虜に配布されている。ここでは、そ の中から代表的な物を紹介したい。 |
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図362 図363 |
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図362は、収容所名俘虜郵便表示が青色印刷されている俘虜郵便専用葉書である。 文面欄にはシンプルな罫線も印刷されている。 この使用例は、大正5年10月16日福岡局発、海軍砲兵隊のクレッシェン(Friedrich Klaeschen・MAK)差出、ドイツの親族宛の俘虜郵便。文面部には、俘虜独自の追加印 刷と考えられる「収容所移転通知」(図363)が印刷されており、新規収容所名が空欄に なっている。大正5年10月には、大分・青野原・大阪・名古屋・習志野等に大規模な俘虜 の移動があったので、このような葉書が必要となったのだろう。クレッシェンは10月22日 に習志野に移動している。この葉書の空欄部分には、“東京の近くの習志野(収容所)“ と記してある。 |
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図364 |
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図364は、収容所製の受領証葉書である。俘虜差出の俘虜郵便では、小包等の郵便 物や義捐金などの受領証兼礼状も多く、検閲の手間を軽減する為に、収容所では予め 項目を印刷した葉書を配布している。 この使用例は、大正6年7月11日福岡局発、東京赤坂のランドグラフ宛の義捐品と義 捐金受領の礼状。差出人は、予備陸軍中尉のドクター・ハック(Dr.Friedrich Hack・ Gouvernement, Stab/Nachrichtenabteilung)で、南満州鉄道東京支社時代(1912年から 顧問として勤務)からクルップ社のランドグラフと親交があったと考えられる。福岡収容 所では、将校俘虜の脱走事件に関与したとして処分されているが、日本語が堪能で通 訳も任されており、収容所側からも一目置かれていたようだ。 クルップ社と強いパイプを持っていたハックは、戦後1921年にベルリンの日本海軍武 官室顧問となっている。その後クルップ社のアドルフ・シンツィンガーと「シンツィンガー & ハック商会」(Schinzinger & Hack Co.)を設立し、軍需品の仲介を通して日本海軍の有 力者とも親交を深め、昭和11年(1936年)の日独防共協定締結の立役者とも言われて いる。大正・昭和を通して日独の架け橋となっており、日独協会の設立にも参加してい る。昭和20年にはスイスを舞台に終戦工作に奔走したという説もあるが、真偽は定かで はない。 |
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図365 |
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図365は、収容所製の俘虜郵便用封筒である。薄くて不鮮明だが、封筒左部分に縦書 きの紫印“福岡俘虜収容所”が押印されている。 この使用例は、大正6年11月24日福岡局発、同上のドクター・ハックよりランドグラフ宛 の書留便である。俘虜郵便の特殊扱い使用例(価格表記・書留・別配達等)はいずれも 珍しいものだが、中でも書留便と別配達便は稀少な使用例である。 |
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図366 図367 |
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最後に取上げるのは、いわゆる“差出許可印”と呼ばれているものである。私製葉書 等に収容所が予め「福岡俘虜収容所」の朱角印(図366)を押した俘虜郵便用葉書で、 主に将校俘虜に配布され、差出し許可の制限に利用されたものと考えられる。 図367は、大正6年11月16日福岡局発、第三海兵大隊参謀本部・予備陸軍中尉・連絡 将校ヴァイゲレ(Eugen Weigele・Stab VSB-Verlehrsoffizier)差出、スマトラ島のドイツ 人宛。収容所名入郵便検閲印は紫色。 |
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