第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 87 06.08.10 |
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12) 福岡俘虜収容所(その1) |
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図350 ワルデック総督 |
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大正3年11月15日に第一陣俘虜575名、17日にワルデック総督以下約256名が到着。 開設当初の俘虜総数は約830名。収容所施設は日本赤十字支部をはじめとする既存 施設を利用し、ドイツ青島守備軍の主要将校俘虜も収容されている。大正4年7月に百 数十名が久留米に移動、その後、大分、青野原、大阪、名古屋、習志野などに段階的 な移動が行われた。大正7年3月にワルデック総督以下、幹部俘虜が習志野に移動後 閉鎖された。将校俘虜の集団脱走、俘虜の自殺(ザルデルン事件・俘虜夫人殺害事件 による)等、注目すべき事柄も多い。 |
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図351 福岡日赤支部将校俘虜収容所・スイス国際赤十字俘虜委員会製葉書 |
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(福岡日本赤十字支部) 洲崎海岸旧台場の日本赤十字支部には、ワルデック総督以下主要将校俘虜が収容さ れている。ワルデック総督は、久山所長直々の案内を受け敬意をもって収容された。 (県物産陳列場) 県物産陳列場には、本部事務所、衛兵詰所。(2棟) (柳町の旧遊郭跡) 遊郭跡に建てられた家屋(7棟)を利用した、下士卒俘虜収容施設。 収容所に俘虜到着直後(大正3年11月15日〜)には、他の収容所と同じく収容所名の 無い郵便検閲印が使用されていた可能性がある。しかしながら、11月23日の使用例が 確認されているので、あるいは開設当初から収容所名入郵便検閲印が準備されていた とも考えられる。 |
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図352〜355は、収容所名入郵便検閲印で、最初期は朱色で大正3年12月中頃まで 使用された。その後、赤(大正4年中使用)、青紫・紫(大正4年5月〜)の印色に変化して いるが、大正4年中は使用期間が重複している。 |
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図356 |
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図356は、大正3年11月23日神戸三宮のドイツ人より、海軍東亜分遣隊第三中隊の ヴェーゼマン(Walter Wesemann・3K/OMD)宛の俘虜郵便。収容直後の俘虜へ知人の在 日ドイツ人が書いたもので、「何か困ったことや欲しい物があれば、遠慮なく言って下さ い〜」と、暖かい言葉が添えられている。 福岡収容所の俘虜郵便としては極初期使用例で、収容所名入郵便検閲印の印影も 鮮明で使用開始直後の朱色である。 |
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図357 |
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図357は、大正3年12月14日福岡局発、海軍砲兵隊のアウグスト(Franke August・ MAK)差出、ドイツ宛の福岡収容所初期使用例。収容所名入郵便検閲印は朱色、 “SDPDG”印は赤色。 |
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