第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 83      06.04.13

10) 久留米俘虜収容所(その4)

(俘虜の家族)

 1915年(大正4年)6月9日、熊本収容所の俘虜約640名が久留米に移転となった。
これに伴い、熊本に滞在していた将校俘虜の家族達も久留米に移っている。久留
米教育委員会の記録(久留米俘虜収容所U)によると、グラボー中尉夫人をはじめ
とする、十数名の家族(夫人や子供達など)が国分村周辺の借家に滞在し、夫人た
ちは週に一度(後に二度)夫との面会(30分)を許され、日常生活は非常に質素であ
ったと記録されている。他の収容所にも将校俘虜の夫人達が滞在していた記録が
あるが、その多くは青島をはじめとする中国各地に暮していた予備兵将校の家族で
あった。
 
1917年2月に、福岡に滞在していた福岡収容所俘虜ザルデルン大尉夫人イルマ
が、殺害されるという痛ましい事件が起こった。久留米の俘虜夫人らも数人で同居
をしたり、警察の協力も得るなど、なるべく目立たないように安全にも気を配ったよう
だ。

図318

 図318は、久留米収容所の俘虜、第三海兵大隊の予備歩兵少尉、ドクター・モー
ル(Dr.Friedrich Wilhelm Mohr・SB Leutnant d.Res.d.Mar.−Inf.)が
大正5年9月16日
差出した、国分村浦川原の借家に滞在していた妻(Signe Mohr)に宛てた手紙であ
る。モール夫人は、スイス人の妹とともに滞在し、
1917年中には久留米を離れてい
る。モール少尉もその後習志野収容所に移っている。封筒上の“國分村”はおそらく
モール自身が書いたもので、“モール夫人”は配達人への指示として久留米収容所
もしくは久留米郵便局で追記されたものである。近況等が書かれた手紙の便箋は、
久留米収容所から配布された“発信用紙”が使用されている。
 
日本に滞在した俘虜夫人宛の俘虜郵便は、歴史的にも非常に貴重な資料である
が、これら俘虜の夫人や家族が平然と民間人として敵国内に生活できたということ
は、後の太平洋戦争等の戦争倫理観を考える上でも非常に興味深いものであろ
う。

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