第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 82 06.03.02 |
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10) 久留米俘虜収容所(その3) |
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(久留米バラック収容所) |
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寺院等の小規模施設に分散収容されていた俘虜を、軍用地に新築された施設や 軍直轄の施設に統合収容する陸軍省の方針に基づき、大正4年6月、久留米では 全国に先駆け俘虜収容所の整理統合が行われている。、新任収容所所長真崎甚 三郎中佐のもと、教務所、高良台支所、篠山支所、及び熊本収容所、福岡収容所 の一部を統合することになった.。 新しい収容所は三井郡国分村の第48連隊、旅団司令部、衛戍病院に隣接した 旧衛戍病院新病舎跡に準備されたバラック16棟、将校用2棟、他各種施設からなっ ていた。 |
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図304 図305 俘虜作製収容所図 |
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大正4年6月8日、久留米の各収容所から俘虜約540名が新収容所(通称「バラック 収容所」)に移転。翌9日、熊本収容所から俘虜約640名、福岡収容所から約130名 が移転、開設当初から俘虜総数1300名を超える大規模収容所がここに誕生した。 施設としては収容者数に対して収容所が狭く、施設の不具合等から俘虜と収容所 側のトラブルも度々起こり、ドイツ俘虜にとっては評判の悪い収容所との記録もある。 一方、スポーツ、音楽をはじめ様々な俘虜の文化活動も記録に残っており、また様 々な分野におけるドイツの優れた技術も地域住民との交流を通して伝えられている。 大正7年(1918年)11月11日ドイツと連合国間で休戦協定が結ばれ、ヴェルサイユ 講和会議により俘虜解放が準備段階にはいった。久留米収容所では、大正8年12 月から本格的な俘虜解放が始まり、神戸港から「喜福丸」「ひまらや丸」「南海丸」等 により解放俘虜は順次帰国の途についた。大正9年1月26日最後の俘虜が退所、3 月12日久留米収容所は閉鎖された。 |
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図306 |
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図306は、大正4年6月22日久留米発、久留米バラック収容所移転後初期のドイツ 宛俘虜郵便である。“俘虜郵便”表示印は赤色、“検閲済”印は朱色。検閲印は教務 所隣接の旧本部事務所で使用されていたものと同じで、6月中はこの形式で検閲さ れている。 |
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大正4年7月からバラック収容所独自の郵便検閲印の使用が開始された。A〜Gま での7種がある(図307〜313)。検閲官による分類などが考えられるが、確証はまだ ない。下の“Z”はドイツ語で検閲を表す“Zensor”“zensiert”を意味すると思われる。 この形式の検閲印は、収容所閉鎖まで使用されている。 |
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図314 |
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図314は、1915年(大正4年)9月27日ドイツのプラウエン発、シベリア鉄道、敦賀経 由、12月8日久留米着。第三海兵大隊第四中隊のフィッシャー(Edmund Fischer・4K /VSB)宛の俘虜郵便。 |
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図315 |
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図315は、大正8年12月10日久留米発、第三海兵大隊第一中隊のマイエンボルン (Ewald Maienborn・1K/VSB)差出、神戸のドイツ人宛の俘虜郵便。解放が近いこと を伝えている。 収容所により配布された葉書・便箋等に、“発信用紙”と押印された物が知られて いる。印色は紫、黒、朱赤が記録されているが、差出許可の管理に利用されたもの と考えられる。 |
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図316は、大正5年2月24日久留米発、門司経由、ドイツ宛の俘虜郵便。 “発信用紙”紫印付葉書の使用例。大正3年9月28日浮山で俘虜になった第一陣俘 虜、第三海兵大隊第二中隊のツィーガー(Albert Zieger・2K/VSB)差出。 |
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図317は、特異な三角型検閲印の使用例である。大正6年4月4日京都聖護院差出 在京都のドイツ人より久留米収容所検閲官島田氏宛の普通郵便である。差出人が ドイツ人で受取人が収容所職員であるので、通常俘虜郵便と同じく検閲が行われた と考えるが、収容所職員の発着郵便物だけにこの検閲印を使用したのかどうかは 分からない。この時期の検閲印としては特異なものだけに、新たな使用例の確認が 期待される。 |
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