第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 74 05.03.05 |
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07) 青島陥落後のドイツ俘虜(その2) |
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六日夜より總攻撃の朝に至る戰闘に於て獲たる捕虜の數は二千四百九十六名に して、開城に際し更に千四百十名の俘虜を獲總數約四千名に達せり(負傷者は別) 戰闘に於て獲たる分は直ちに大埠頭に送り十二日より内地に、又他の分は一時臺 東鎮部落に収容、十四日より夫々内地に向け護送し、福岡、熊本、松山、丸亀、姫 路、大阪、名古屋、東京の各収容所に分配収容せり。而して負傷者衛生部員六百 名は十九日山東鐵道にて天津に向け護送放還したり。因みに最初よりの獨軍の戰 死傷者は約六百名なり。(朝日新聞社・日独戦記) 大正3年(1914年)11月9日、ワルデック総督の立会いのもと戦死ドイツ兵の埋葬式 を執り行い、翌10日城内のドイツ俘虜集合場所を萬年兵営(ビスマルク兵営)とし、 日本護送が始まった。萬年兵営組の一部は、同日最初の目的地である臺東鎮に移 動している。 |
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図277 萬年兵営より臺東鎮への俘虜護送 |
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輸送船舶の調整の為、臺東鎮村落(Taitungshen)で数日間待機する事となった。 日本軍護送兵監視のもと、将校には比較的破壊の少ないドイツ人家屋、下士卒兵 には破壊された中国人民家等が提供されているが、野宿する者も多かったようだ。 |
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図278 臺東鎮のドイツ将校俘虜、日本軍により帯剣が許可されている |
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図279 同じく臺東鎮のドイツ俘虜 |
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11月14日早朝臺東鎮を出発、これらのドイツ俘虜は沙子口(Schazykou)に8時間 かけて移動している。また、ワルデック総督ら幕僚は一般俘虜とは別に、萬年兵営 より野田中尉に引率され自動車で李村、張村を経て沙子口に移動している。 沙子口碇泊の輸送船薩摩丸は、ワルデック総督ら幕僚13名、以下俘虜約500名を 収容し、同日夕刻抜錨、門司に向かった。ヨーロッパ丸は、その他の俘虜を収容、 翌15日早朝抜錨、宇品に向かっている。 |
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