第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 73 05.03.04 |
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07) 青島陥落後のドイツ俘虜(その1) |
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大正3年(1914年)11月7日早朝の青島ドイツ軍の降伏により、青島のドイツ俘虜の 収容が始まった。ここでは、貴重な写真を幾つか紹介しながらその流れを簡単に追 ってみたい。 |
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図274 イルチス砲臺にて降伏したる敵軍の捕虜各自荷物を負ひて 護送官の指揮を受けつつある光景なり |
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11月8日、攻略軍司令官神尾中将により「開城實施手續規定」が発せられた。俘虜 委員としては、委員長浄法寺少将以下、香椎参謀、平松副官、山田大尉、旅団副官 一名、歩兵将校十五名、乗馬将校五名、主計三名、軍医五名が任ぜられている。 第五項 俘虜委員ハ海泊河以北ニアル諸村落ニ俘虜ヲ収容スヘシ。又之カ監視 ニ要スル兵員ハ歩兵第二十九旅團ノモノヲ使用シ又給養ニ關シテハ師團經理部長 ト協議スヘシ。俘虜後送ニ關シテハ臨時之ヲ指定ス。(秘大正三年日独戦史) (開城業務の開始) 俘虜委員 俘虜委員長少将浄法寺五郎ハ更ニ庶務掛、受領掛、設營掛、警戒及通信掛、給 養掛、衛生掛ニ區分シ獨國側モ俘虜委員トシテ中佐フオン、ケツシンゲル以下數名 ヲ任命シ十一月十日ヨリ俘虜ノ収容ヲ開始ス俘虜ハ一旦臺東鎮ニ宿營セシメ十一 月十四日沙子口乗船ヲ先頭トシテ内地ニ護送シ前總督ワルデツクモ亦十一月十四 日島ビスマルク兵營(萬年兵營)ヲ出發シ同日沙子口ニ於テ乗船セシム俘虜タル ヘキ者ノ内我軍ノ利便ヲ顧慮シ測候、水道、洗濯及屠獣ノ諸業務ニ關係アル者ハ 暫ク残留セシメ傷病入院者ハ治療ノ後収容シタルヲ以テ最後ノ後送ハ十二月上旬 以後ニ亙レリ (秘大正三年日独戦史) (青島若鶴俘虜収容所) 青島残留俘虜や新たに拘束された軍籍のあるドイツ人等を収容している。若鶴兵 舎(旧モルトケ兵舎)が使用されたが、同所には臨時鐵道聯隊第三大隊も駐留して いる。俘虜収容所としては臨時的なものであったと考えられるが、詳細は不明であ る。 |
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図275 若鶴バラック表門、門柱左に「臨時鐵道聯隊第三大隊」 右に「俘虜収容所」の表札が見える |
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図276 若鶴俘虜収容所バラック・旧モルトケバラック |
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(環送輸送及凱旋輸送)より俘虜護送について 十一月七日島陥落シ俘虜輸送ノ必要生シタリシカ當時之カ為ノ運送船ノ準備ナ カリシヲ以テ交通船補充人馬輸送船トシテ運行中ナル船舶ヲ利用シ十一月十二日 ヨリ同二十七日ニ至ル間五囘ニ分チテ沙子口ニ於テ乗船シ収容所ノ關係上門司、 多度津、高濱、大阪、宇品ニ上陸セシメタリ其數四千四百七十四、内将校二百七十 七トス (秘大正三年日独戦史) |
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