第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 71 05.01.06 |
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05) 青島陥落前のドイツ俘虜(その2) |
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大正3年9月15日、ドイツ軍用船の疑いがあるとしてドイツ・ハンブルグ・アメリカ 汽船所有ズイモ号を拿捕、ドイツ人乗組員を一時拘束のうえ佐世保審検所に回航 し、米国領事の協力のもと厳重な調査をしている。また、国籍は様々だが獨探(ドイ ツ側スパイ)の嫌疑で多数の邦人、外国人も各地で拘束・警戒されている。言論統 制としては、ジャパン・デイリー・ヘラルド、日獨郵報各誌が発行禁止になり、一部関 係者も警察により逮捕拘束、国外追放されている。しかしながら、9月の時点では日 本国内に俘虜収容所は開設されておらず、これら一時的に拘束された者達はいず れも“戦時俘虜”としては取扱われていない。 それでは、“戦時俘虜”として日本に護送された、最初の青島ドイツ兵俘虜は誰な のだろうか。大正3年10月9日に55名の青島ドイツ兵俘虜が久留米収容所に護送さ れているが、果たしてそれ以前に、日本に護送された青島ドイツ兵俘虜はいたの か。また、いたとすればその収容施設は何処であったのだろうか。 9月中にドイツ兵俘虜が日本に来るとすれば、戦地軍事作戦遂行上、少人数の単 位では、この時期日本へ護送するというのは考えにくい。しかし、病院船により日本 へ運ばれた負傷兵ドイツ俘虜がいたとすればどうだろう。 日本軍は青島攻略軍の龍口上陸(9月2日)に伴い、日本赤十字社所属病院船二 隻を徴用し、還送輸送船として第一病院船博愛丸を9月5日、第二病院船弘済丸を9 月12日、それぞれ宇品に回航し運輸部本部長の隷下に入れた。白い船体に赤十 字を染めた両船は、宇品を起点として交互に山東半島(龍口、労山湾、沙子口)と 日本を往復し、傷病兵を門司、宇品に後送することになった。その後、青島陥落(11 月7日)までに後送回数各8往復、両船による後送傷病兵は約二千名を数えた。 |
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図270 |
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9月30日早朝、龍口経由で労山湾(27日発)より後送(第2次博愛丸後送)された傷 病兵将校以下71名が門司に上陸した。残りの60余名はそのまま宇品へ運ばれ、同 日夕刻到着した。10月1日付の東京朝日新聞には、“博愛丸送還の傷病兵”として 記事が出ているが、そこには“一名の珍客同船”としてドイツ俘虜を記録している。こ れは、筆者が確認している範囲では、最初の日本移送青島ドイツ兵俘虜(氏名・所 属等不明)の記録である。(図270) 捕虜一名同船 傷病軍人を載せたる博愛丸は三十日夕宇品に入港の筈なるが 患者の他獨逸の捕虜一名も乗船せりと(宇品特電) (注:陸軍参謀本部・秘大正三年日独戦史「病院船患者後送一覧表」では、この俘 虜は記録されていない) 9月30日に宇品に運ばれたドイツ俘虜が、傷病兵であったかどうかは分からない。 しかしながら、日本にドイツ兵俘虜収容所が存在しないこの時点において、宇品に 移送されたということは、他の日本軍傷病兵と共に「広島陸軍衛戍病院」(広島城内) に収容された傷病兵俘虜と考えるのが妥当である。10月6日俘虜情報局発表の記 録では、9月22日流亭においてドイツ負傷兵一名を鹵獲、9月27日李村附近で同じく 一名を鹵獲とある。あるいはこのどちらかが、日本上陸青島ドイツ俘虜第1号なの かもしれない。(9月中にドイツ傷病兵俘虜が収容された“患者療養所”(“野戦予備 病院”は未開設)は、即墨と王哥庄の二ヶ所だけである) |
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図271 |
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図271は、大正3年12月21日(櫛型・廣島/3.12.21/后6−8)、広島陸軍衛戍病院 (Hiroshima Militaerhospital)のドイツ傷病兵俘虜差出、青島のドイツ歯科医宛の俘 虜郵便である。櫛型印の左上に“発(三五)”と書かれている。また、陸軍の郵便検 閲官(木谷資俊)と考えられる検閲印も見られる。陥落後も青島に留まった、知合い のドイツ民間人に近況などを知らせたものであろう。 大正3年12月の時点で広島陸軍衛戍病院にいるということは、(似島収容所はま だ無い)戦地から傷病兵俘虜として宇品を経由し、直接「広島陸軍衛戍病院」に収 容されたと考えるのが妥当である。差出人の俘虜ティーロー(Friedrich Thilo 第3海 兵大隊第6中隊・予備副曹長/Vizefeldwebel d.Res. 6K/VSB)は、同病院より大阪 収容所に収容され、その後似島収容所に移動している。 大正3年中の収容所外施設ドイツ俘虜差出の俘虜郵便を、筆者は他に知らない。 「広島陸軍衛戍病院」は、先に述べたように日本最初の青島ドイツ俘虜収容施設の 可能性も高く、日独戦争の俘虜郵便史の上でも、非常に貴重な使用例といえる。 (補足:ドイツ俘虜研究家の方から貴重な情報がありました。当記事で取り上げてい る日本移送俘虜第一号について、宇品経由で広島衛戍病院に移送された事を証明 する記録が見つからず、あるいは「宇品特電」は新聞記者の誤解で、該当俘虜は門 司で既に下船して久留米衛戍病院に収容されたのではないかというものです。いず れにしても、この船に俘虜第一号が乗船していた可能性は高く、久留米や広島等の 陸軍衛戍病院に一時的に収容された俘虜差出の郵便物のさらなる発見が望まれ ます。平成17年2月28日) |
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