日独戦争と俘虜郵便の時代 48 03.12.29 |
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23) 青島守備軍の普通郵便局(その4) |
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青島守備軍の普通郵便局で使用された郵便日付印の中には、古くから収集家の 心を惹きつけている幾つかの“珍印”が知られている。使用例確認数が少ないも の、未発見の幻の機械印、その存在自体が謎に包まれた櫛型印等もあり、その興 味が尽きる事は無い。 (櫛型欧文印) 外国郵便交換局に指定された青島本局(TSINGTAU)、済南(TSINAN)、維県(三 水の維・WEIHSIEN)の3ケ所の普通郵便局では、大正7年11月21日の普通郵便局 開局に伴い、櫛型欧文日付印が配備されたと考えられている。使用廃止の日付に ついては、一般的に山東日本郵便局閉鎖日の大正11年12月10日とされているが、 中国側郵便局への引継ぎに伴う残務整理期間を考慮すると、同年12月末頃まで使 用された可能性は、否定できない。 “TSINGTAU”(図181)の使用例は比較的良く 見かけるが、“TSINAN”と“WEIHSIEN”の2局は、確認されている使用例が少なく、 外地欧文櫛型印の“珍印”としても有名である。特に“WEIHSIEN”は、嘗ては幻の欧 文印の一つに数えられ、その完全なエンタイアが出現した際には、多くの収集家が 驚いたといわれている。 |
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図181 図182 |
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図183 支那加刷旧毛10銭2枚貼書留便 櫛型・WEIHSIEN/1.2.19./I.J.P.O. 米国宛、タカハシオークション371号より |
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確認された使用例データを見てみると、確認数の多い“TSINGTAU”局も含め、 1918・1919年(大正7・8年)の使用例は少ないようで、入手した際には大事にしたい ものである。 注目すべき点は、欧文櫛型印として在中国日本郵便局では一般的なゴム印では なく、いずれも金属印であることである。また、C欄の“I.J.P.O.”が中央に寄っている 事も、特徴の一つに挙げられるだろう。 |
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(機械印) 青島において大正11年の極短期間使用された機械印は、使用例の少なさと、未 確認の欧文機械印の存在からも注目すべきものといえよう。 大正11年5月23日付逓信公報(第2901号)の告示では、「山東省青島郵便局ニ於 テ米國式押印機使用・五月二十一日ヨリ青島郵便局ニ於テハ普通様式ニ依ル逓信 日附印ノ他第一種及第二種郵便物ニ對シ左記甲號様式ニ依ル日附印ヲ又外國郵 便物ニ對シテハ乙號様式ノ日附印ヲ試用ス」とあり、甲(和文機械印・図186)、 乙(欧文機械印・図187)が記載されている。 |
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図184 機械・青島/11.8.3. 京都宛 |
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図185 図186 図187 |
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使用期間について告示を信用するならば、大正11年5月21日より12月10日(12月 末頃の可能性有)までと考えてよい。しかし、筆者の確認したデータは7月〜9月の 使用例だけであり、使用時期の解明は今後の課題の一つになっている。乙の欧文 印については、使用例が確認されていない事や、この米国式(ユニバーサルD型) 押印機が青島にはおそらく1台のみの配備であったと考えられる事等から、実際に 郵便使用されたかについては疑問をもつ専門家も多い。“試用”という観点からみる と官白などに押印された可能性はあり、使用例の発見報告が待たれている。また、 告示に使用されている青島の“青”の字体は、実際の使用例では“”となっている 点も注意したい。 筆者は、この青島郵便局での機械印使用についてある疑問を持っていた。それ は、日本軍の青島撤退が予測されるこの時期に、なぜ青島郵便局でこの米国式押 印機を“試用”しなければならなかったのかという事である。無駄になるかもしれな い調査に時間を費やした結果、ある仮説をたてる事ができたので記録しておきた い。 前述のように逓信公報(大正11年5月23日)によれば、青島郵便局での“試用”は5 月21日に始まっている。青島守備軍の記録を追ってみると、翌5月22日付の青島守 備軍司令官由比光衛より陸軍大臣山梨半造への「物品及切手類處理方之件上申」 (青逓経第556号)に興味深い事が記されていた。「当守備軍撤廃後に、利用しない 郵便現業専用物品及び電信電話専用物品は、逓信省に対し保管転換の申請をす る、不要である事の明らかな支那符号入印紙・切手・葉書類は焼却処分とする(概 要要約)」 同年8月5日、同じく青島守備軍司令官由比光衛より陸軍大臣山梨半造へ「物品 處理方ノ件」(青逓経第742号)が申請されている。 ・當軍撤廃時ニ於ケル逓信部所属物品處理方ニ就テハ五月二十二日青逓経第五 五六號ヲ以テ上申ノ次第モ有之候處今回関東廳逓信局ニ於テモ豫算大緊縮ヲ必 要トスル折柄業務用品ノ譲渡ヲ受ケ度旨申出有之同局トハ従来事業上特殊ノ関係 ヲ有シ居タル事情モ有之候逓信省ニ於テ所用以外ノモノニシテ同廳ノ必要トスル物 品ハ特ニ無償保管轉換ヲ為スコトニ致シ右青逓経第五五六號上申ノ趣旨ニ依リ取 扱度御承認相成度上申候也(青逓経第742号) つまり、「青島郵便局は従来関東庁逓信局とは特殊な協力関係にあり、財政的困 窮にある同逓信局へ青島撤退後の青島郵便局の物品(事務用品・事務器材)を無 償で保管転換(譲渡)したいので逓信省と交渉してほしい」という申請である。逓信 次官より陸軍次官への回答(逓調第7305号)は前向きなもので、現品の受領方法 等は逓信省が青島守備軍と直接交渉する事としている。 関東庁管内の郵便局では、波型機械印使用の告示として大正15年5月1日(関東 庁告示第72号)が記録されているが、大連ではこの告示よりかなり早い段階で(D 型)機械印が使用されている。大正11年11月28日関東庁告示第135号により、他局 に先立ち同年12月より正式に採用されている。 筆者の仮説は、「青島守備軍指揮下の青島郵便局は、青島守備軍・日本郵便局 の青島撤退を前提として、特殊な協力関係にあった関東庁逓信局に便宜を図る 為、逓信省より新式D型機械印を導入・短期間試用し、逓信省の許可の上、撤退前 の11月末頃迄に大連局へ保管転換の名目で、同機械印設備一式を譲渡配備した のではないか」というものである。現段階では奇妙な日付の符合、青逓経第742号、 大連局の機械印の記録だけが根拠であり、単なる“推測”の域を出ていない事は充 分承知している。この機械印の分野は、多くの専門研究家がいるので、拙記事が何 らかのヒントになれば幸いである。 (済南の変型櫛型印) 日独戦争関連の郵便印として古くから注目されているのが、済南の「変型櫛型」印 (C欄時刻・D欄無し)(図188)である。その特異な形状もさることながら、出生も謎に 包まれており、現在まで多くの収集家がその謎の解明に挑戦してきた。しかしなが ら、その存在数の少なさから統計だった記録も無く、現在では単なる珍印バラエティ のひとつとして扱われることも多い。筆者はこの「変型櫛型」印の使用時期について 若干の疑問を持っている。郵趣界で発表されている使用時期のデータを再度検証 し、情報の提供を呼びかけたい。 |
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図188 変型櫛型・済南/8.7.26./后6-9 シベリア宛軍事郵便 |
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済南の「変型櫛型」印の使用時期は、従来の郵趣文献の多くが「大正7年8月頃か ら、翌8年8月頃まで」としている。疑問としては、大正7年8月から11月20日(普通郵 便局設置)までは「D欄野戦」印の使用時期にあたり、発表されているデータ(軍事 郵便・大西二郎氏著、野戦郵便局のロケーティング・鈴木孝雄氏著)によれば、大 正7年11月19日の「D欄野戦」印使用例が、また、大正8年1月1日の普通櫛型印使 用例も記録されている。筆者が確認した済南の「変型櫛型」印のデータは、少ない ながらも全て大正8年6月から8月のものであり、開始時期とされる“大正7年8月”と いう記録(現物写真等)の出所を確認する事は出来なかった。 山東郵便史の大収集家として、直ぐに名前があがるのが故水原明窓氏である。 水原氏の業績の偉大さは、郵趣界を先頭になって牽引しただけでなく、研究家・収 集家としても世界的レベルにあったことである。特に中国・朝鮮関連の郵便史には 力を入れていて、文献としても数多くの研究論文やコレクション集を残されている。 水原氏の生涯をかけたコレクション集である「華郵集錦」(第一部・二部)は、特に有 名であるが、その「第一部・Y山東郵便史p.231」及び「第二部(4)p.272」に済南の 「変型櫛型」印のエンタイアとして、平和記念3銭貼のユニークな青州宛カバーが載 録されている。その日付データとして、リーフ上に英文で(Aug.7,1918)と記述して あるのが目にとまった。しかしながら、そのエンタイア上の実際の日付印は大正8年 8月7日(Aug.7,1919)であった。水原コレクションの影響力を考えると、この些細な 数字の誤植が済南の「変型櫛型」印の最古データとしてひとり歩きしてしまった可能 性はないだろうか。 また、済南の「変型櫛型」印の印影サンプルとして、「華郵集錦」をはじめ郵趣文献 にたびたび取上げられているのが、“大正7年10月10日”の日付である。この印影の 出所も明らかにする事はできなかった。 |
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図189 |
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図189は、済南野戦郵便局(普通郵便局)より岐阜県宛の軍事郵便である。日付 印は、普通櫛型・済南/8.5.6./前0-8 が押してある。筆者が確認している「変型櫛 型」印の最古データは大正8年6月6日であり、郵便印として「変型櫛型」印とその他 の櫛型印(“D欄野戦”印及び“C欄時刻普通櫛型”印)の“併用”が無いとすれば、 「変型櫛型」印の使用開始のデータは“大正8年5月7日以後6月6日までの間という 事になる。使用停止時期を同年8月中とするならば、この場合3〜4ヶ月の使用期間 ということになり、1年あまりとされてきた使用期間は大幅に短縮されてしまう。 逆に、大正7年8月から大正8年5月6日までの「変型櫛型」印の使用例が確認され れば、郵便印として「変型櫛型」印とその他の櫛型印(“D欄野戦”印及び“C欄時刻 普通櫛型”印)の“併用”があったという事になる。 この済南の「変型櫛型」印の使用例は、近年になって少しずつ増えているはずな ので、データや図版記録をお持ちの方は是非発表していただきたい。この印が使用 された謎の解明へも、一番の近道になるであろう。 (追加記録:安藤源成様より、「済南」の変型櫛型印、青島宛軍事郵便葉書、大正 8年6月3日の使用例報告がありました。筆者確認最古データを3日更新しました。こ こに記録させていただきます。安藤様有難うございました。平成16年1月20日) |
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