日独戦争と俘虜郵便の時代 39 03.09.05 |
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20) 占領後の山東鉄道 (その1) |
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山東鉄道の歴史は、1898年3月6日の独支協約に基づき、ドイツが同地に鉄道敷 設鉱山採掘権を獲得した事に始まる。翌1899年6月14日、ドイツ政府主導のもと山 東鉄道会社の設立にいたった。資本金5400万マルク、主な株主は独亜銀行、独逸 銀行、独逸国民銀行、ドレスデン銀行、割引(ヂスコント)銀行、伯林商業会社等で あり、当初本社を伯林(ベルリン)に置き、後に青島に移転、日独戦争開始後は張 店に移動している、また、同社は本線の連絡路線拡張(博山支線等)、鉱山会社吸 収なども順次行っている。 日独戦争開戦後、山東鉄道(膠済鉄道)会社は中立を宣言していたが、実際はド イツ軍の兵士、食料等の軍需品の輸送路として重要な役割を担っていた。日本軍 は、ドイツ軍の輸送路を断つという名目として、戦後の山東戦略において重要なこ の鉄道路線の掌握を開始した。独立第十八師団久留米騎兵聯隊(多田騎兵中尉) により、日本軍は大正3年(1914年)9月17日膠州停車場を占領。9月25日には、久 留米歩兵聯隊(野村大尉)により維県(三水の維)停車場を占領。記録を追ってみる と、事実上9月29日までに山東鉄道は放棄閉鎖されたとみられる。さらに、中国政府 の抗議を無視した日本軍は、10月2日より交戦容認区域外である済南へ向けて進 軍を開始し、久留米歩兵聯隊(野村大尉)により10月7日午前2時、最終駅である済 南府停車場の掌握を完了している。 |
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図134 済南府停車場 |
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久留米歩兵聯隊の先遣隊が済南府停車場に到着した時、山東鉄道のドイツ職員 等は天津方面へ避難逃亡した直後であった。済南府は(人口20余万)山東省の首 都であり、中国側の抗議を考慮し、日本軍はその占領管理区域を鉄道線路及びそ の関連付属地に限定したので、(日本側の記録による)大きな混乱はなかった。駅 舎は略奪等の被害も少なく、開戦後稼動可能な機関車及び車両も同停車場にでき るだけ集められていた。記録によると、占領時に済南府停車場にあったのは機関車 26台、貨車客車700輌を越えていたようだが、日本軍による即時使用を阻止する 為、ドイツ側によって機関車のリンクアーム部分が全て持ち去られていたという。 |
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図135 |
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図135は、済南の独立第十八師団歩兵第一大隊の兵士から大阪宛に送られた、 軍事加刷菊封緘葉書である。櫛型・第十四/3.11.15./野戦局が押されている。済南 にあった師団郵便部第十四野戦郵便局で引受けられている。 |
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図136 |
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図136は、済南の青島守備軍臨時鉄道聯隊第二中隊の兵士より東京へ宛てられ た年賀状である。櫛型・第九/3.12.22./野戦局が押されている。済南でも12月中頃 までに師団郵便部から守備軍逓信部へ業務引継ぎが行われており、守備軍逓信 部第九野戦郵便局で引受けられている。 |
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図137 |
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図137は、済南より長野宛。櫛型・済南/6.9.24./野戦局が押されている。大正4年 4月1日より、同地でもA欄地名入り野戦局印の使用が始まっている。 |
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