日独戦争と俘虜郵便の時代 38      03.08.29

19) 対華二十一ヶ条の要求

 第二次世界大戦での敗戦にいたる、歪んだ日本の軍国主義は一体どの時点から
始まったのか? その原点の一つとして、この“二十一ケ条の要求”を挙げる歴史
家も多い。この日中間の歴史問題を簡単に記述する事は到底不可能だが、ここで
は、日独戦争時の対中国政策と対華21ヶ条の要求について述べてみたい。

 
青島攻略戦(
大正38月末〜)では、中国政府は日本軍の行動を常に警戒してい
たが、日本政府は“ドイツ征討”という大義名分のもと中国政府の意向を無視し、日
本主導で作戦行動をとった。日本軍が維県(三水の維)を占領(
925)すると、中
国政府は容認交戦区域外の占領であるとして日本政府に強硬な抗議している。ま
た、日本の膠済鉄道(山東鉄道)管理権要求を拒否し、青島陥落後の速やかな日
本軍の撤退を求めたが(
大正417、中国政府は山東省の交戦区域全廃止を
宣言)、日本政府はこれらを事実上黙殺している。これは、ドイツへの最後通牒の
際、膠州湾租借地を中国に還付する為に日本軍へ引き渡すよう要求したが、これ
に対しドイツが宣戦し日本軍が攻略したのであるから、中国に占領租借地を無条件
で返還する義務は無い、という歪んだ解釈をしたのである。

 かねてより日本政府が持っていた懸案事項として、関東州租借地及び満州鉄道
安奉線の期限延長(
大正11年満了予定)があった。そして、日独戦争をこれらの要
求の好機として利用し、さらなる対中国政策における日本の権利拡大を狙ったもの
が、この“対華二十一ケ条の要求”なのである。


 
大正4年(1915年)118、加藤高明外相は日置公使をもって、袁世凱大総統を
訪問、五号二十一ヶ条より成る直接要求を突きつけた。

第一号  山東省旧ドイツ権益については、日独の協定事項を中国政府は
 承認する。
 膠済鉄道(山東鉄道)へ接続する鉄道路線の敷設権の了承。
 (四ヶ条)

・第二号

 関東州租借地及び満州鉄道安奉線の期限99ケ年延長。
 満蒙の日本権益に関する要求。(七ヶ条)

・第三号

 漢冶萍煤鉄公司の日中合併。(二ヶ条)

・第四号

 中国沿岸港湾と島の不割譲。(一ヶ条)

・第五号

 中国政府の政治、財政、軍事の顧問として日本人の招聘。
 警察、兵器関連、布教、日本資本の優遇等に関して。
 (七ヶ条)

 日本政府はイギリス、アメリカ、フランス、ロシア各国に要求内容を内示したが、第
五号については曖昧な表現にとどめた。中国政府は、国際社会に対して殊更にこ
の第五号を強調し、日本は中国を属国にしようとしていると宣伝した。

 中国との交渉は、
22より二十数回に及んだが進展はみられず、日本は満州、
山東、漢口の各駐屯軍を増強し中国を追詰めた。一方、国際的な非難と列強の干
渉を期待していた中国は、アメリカ等の一部を除いて支持を得られず、逆に欧州戦
局に忙殺されていたイギリス、フランス、ロシアの公使からは、「この時点では日本
との武力抗争を避けるのが賢明である」との忠告をされてしまった。日本政府は、イ
ギリスの意見も取り入れアメリカを牽制し、第五号を削除し最後通牒を出すことにな
った。

 
57、日置公使は陸徴祥外交総長を訪ね、9日午後6を期限とする最後通牒
を手渡した。中国政府はこれを受諾せざるを得ず
25、正式な条約、交換公文とが
調印されたのである。これに対する中国国民の怒りは大きなもので、各地で大規模
な排日運動が起こり、袁世凱も民衆の支持を失っている。そして、この
579
は中国では“国恥記念日”として記憶されることとなった。

支那加刷薄墨連合葉書4銭

上葉書裏面画像
図133

 133大正457、在青島のドイツ人が支那加刷薄墨連合葉書4銭を、青
島野戦郵便局より差出した使用例である。日本が中国に最後通牒を突きつけた、
歴史的な日に差出されている。
櫛型・青島/4.5.7./野戦局で抹消され、ドイツ人差
出の為同局の角型朱色検閲印が押されている。門司の中継印のあるドイツ宛であ
るが、俘虜郵便の扱いにはなっていないので一般民間人の差出であろう。支那加
刷の薄墨連合葉書は、この時点(
45)で青島野戦郵便局に準備されていたか
には疑問があり、ドイツ民間人が天津、北京、上海等から持込んだ葉書を使用した
可能性も考えられる。

 文面が非常に興味深い。簡単に紹介すると、青島の海員宿泊所(Seemannshaus)
のシュルツ氏の差出で、「皆元気でやっているので安心してください。フーゴは今、
東京にいます。〜いつか世界に再び平和がおとずれた時、私達の経験を喜んでお
伝えする事が出来るでしょう。今私達にとって重要なのは、元気であるという事だけ
です。どうか一度フーゴに手紙を書いてやって下さい。フーゴは今“東京の浅草本願
寺”(浅草俘虜収容所)にいます。お元気で〜。」

 浅草収容所の“フーゴ”とは、Langensalza出身では一名しかいないので、海軍膠
州派遣砲兵大隊第二中隊(2
K/MAK)のStoll Hugoと考えられる。おそらく彼と同郷
の差出人が、共通の友人又は親類等に宛てて書いたものであろう。


ご意見・ご感想は当社まで メール でお願い致します。 目次へ