日独戦争と俘虜郵便の時代 25
      03.05.02.

12) 
ドイツ青島要塞攻略 総攻撃


図79 10月31日水清溝より砲撃を行う独立重砲兵大隊

 本格的なドイツ側砲撃は
大正31029よりはじまったが、日本軍の攻撃は縁
起をかつぎ、天長節の祝日
1031日より開始された。これより壮絶な砲撃戦が始ま
り、
115日までに日本側は将校3人を含む40名が戦死、負傷250名を数えた。その
間、日本軍野戦重砲兵隊の前進とともにドイツ側堡塁下へ迫り、砲台への突撃路
の確保に入った。


80 占領直前にドイツ軍に放棄自爆破壊されたビスマルク砲台


81 イルチス砲台占領

 6になるとドイツ側砲撃が小康状態になり、遂に司令官神尾中将は同日深夜
全部隊の敵砲台への総攻撃を命令した。激しい戦闘の末、日本軍は117日午
1
中央堡塁、5時過ぎ臺東鎮堡塁、540小湛山北堡塁、6イルチス砲台、
650ビスマルク砲台及び小湛山堡塁、7モルトケ砲台を占領した。

 


図82

 82は、大正39に同戦役用に加刷発行された軍事加刷菊封緘葉書で、野戦
重砲兵第三連隊の兵士が、
116総攻撃当日の朝書き記した軍事郵便である。
日付印は、
櫛型・第三/3.11.8./野戦局 となっており、前線基地の第三野戦郵便局
(張村)で青島陥落
翌日の8に引受けられている。野戦重砲兵なので、この手紙を
書いた総攻撃当日
6日)には最前線付近にいたはずである。文面を一部紹介しよ
う。
823日召集、916日大阪より出征、25日労山湾に上陸、目下青島最近○○
地に前進、軍務に在り候次第、戦況は通知致し意候共命令に依り差し止められ居
り〜」
この兵士が無事帰国できた事を祈りたい。


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