日独戦争と俘虜郵便の時代 14
      03.02.10.

7) 特務艦隊の活躍 地中海編(その2)

 地中海派遣の第二特務艦隊が編成されたのは、
1917年2月7日の事だった。同
日発表された艦隊兵力は、巡洋艦明石(司令官佐藤皐蔵少将)、第十駆逐隊(梅、
楠、桂、楓)及び第十一駆逐隊(杉、柏、松、榊)である。


図42

 (図42、駆逐艦梅)第二特務艦隊の軍事郵便の取扱開始は、2月17日に開始され
た。これより
1年9ヶ月もの間、地中海マルタ島を基地として、イギリス地中海艦隊
司令官(キャルソープ中将)のもと輸送船団の護衛任務と対独潜水艦作戦を行う事
になる。この遠征は、連合国の軍隊の”後方支援”を自らの危険を顧みずやり遂げ
た、帝国日本海軍史上屈指の誇らしい任務であったにも係わらず、今日あまり取上
げられないのは残念な事である。多くの欧州研究家が、この日本海軍の活躍が無
ければ、西部戦線に於いて連合国の不利は明らかであり、欧州の戦局を大きく左
右していただろうと分析している。事実、第二特務艦隊が護衛したのは、イギリス軍
艦21隻を含め、延べ船舶数計788隻、兵員にして約70万人にものぼった。護衛区間
としてはマルタ島基地を中心に、主にアレキサンドリア(エジプト)-マルセイユ(フラン
ス)間、アレキサンドリア-タラント(イタリア)間、マルタ-サロニカ(ギリシャ)間である。

 ここでは、第二特務艦隊司令附として遠征に参加した、ある若い海軍士官の軍事
郵便を通して、その活躍を取上げたいと思う。
 岸福治氏(群馬県出身、海兵40期、海大23期)は、海軍一筋の道を歩み、
昭和4年
海軍中佐・巡洋艦八雲副長、昭和13年海軍大佐・戦艦扶桑艦長、太平洋戦争開戦
後は海軍少将・第九戦隊司令官としてミッドウェー海戦・マレー沖海戦等を歴戦、

和18年
海軍中将・第七艦隊兼第一護衛艦隊司令長官となり終戦を迎えた海軍エリ
ートであった。そして遡る事
大正6年、その彼が25歳という青年期にこの地中海遠
征に参加していたのだ。
 岸福治中尉は、
1917年(大正6年)2月7日の発令により、第二特務艦隊司令附と
なる。第六戦隊としてインド洋方面を哨戒していた明石と第十駆逐隊は、既にシン
ガポールにいた。第二特務艦隊の編成が発表されると、第十一駆逐隊は
2月17日
佐世保を出港(
3月1日シンガポール着)、第二特務艦隊司令官佐藤少将は、第一
特務艦隊に編成された巡洋艦矢矧に乗船し
2月19日呉港を出港、3月6日シンガポ
ールに到着し旗艦明石に乗換え、ここに第二特務艦隊は成立した。

 
図43

 図43佐藤司令官とともに矢矧に乗船した岸中尉が、呉出港日の2月19日に同艦
より故郷の群馬へ差出した軍事郵便。寄港地佐世保の、櫛型・佐世保/6.2.21./
前8-10の引受局印が押されている。封緘には海軍軍人らしく”Sealed”と英語でペン
書きしてあり、手紙には父母への思いやりと、もし何かあった場合全て長兄に任せ
る事、海軍軍人としての晴れ舞台への意気込み等が、覚悟と緊張の中書かれてい
る。
(図44)


図44

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