第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 107      08.11.12

16) 丸亀俘虜収容所(その3)

 ここでは、丸亀収容所関連の注目すべき人物を、郵便資料から何人か紹介してみた
い。


図265

 
265は、大正571東京麹町局発、丸亀収容所の先任将校・第三海兵大
隊第二中隊長陸軍歩兵大尉ランツェレ(
Waldemar LancelleSB2/Kdt.I-W.4hauptman
d.Mar.Inf
)宛の商用便。東京の薬商・斉藤満平薬より注文品の計算書。一度に4円を越
す注文なので、俘虜代表としての注文かもしれない。ランツェレは青島では台東鎮東堡
塁の指揮官として戦闘に参加。
大正5104、他の将校俘虜とともに大分収容所に
移送されている。


図266

 
266は、大正51030東京丸の内局発、丸亀収容所・第三海兵大隊第七中隊
のラーデマッハー(
Adolf Rademacher7K/VSB)宛の郵便。紫分銅葉書の有料便扱い
だが、俘虜郵便の表示もある。差出人はドイツ系商社
Paul SchrammCo.より東京支店
閉鎖、横浜に移転の案内。ラーデマッハーは神戸に日本人妻(名倉小松)を持ち、度々
その面会訪問を受けていた。ラーデマッハー宛の郵便物はいくつか確認しており、ある
いは戦前
Schramm社に勤務していたのかもしれない。


図267

 
267は、大正41110丸亀局発、大正大礼記念切手貼りの初日郵趣家便であ
る。

 丸亀収容所の第三海兵大隊第七中隊のエンゲル(
Paul Engel7K/VSB)が自ら作成
したもので、俘虜郵便表示は英文で表示しているが、筆跡からエンゲル直筆と考えられ
ている。
エンゲル書簡はランドグラフ書簡コレクションにあったことが分かっている。エン
ゲルは丸亀・板東時代を通していくつかの楽団(エンゲル・オーケストラ等)を結成し、音
楽を通じた日独交流にも非常に貢献した。板東時代には日本人への音楽指導なども行
い、四国随一の文化人として知られた立木写真館の二代目立木真一の協力により
様々な音楽交流も行われた。(立木写真館は、
NHK朝の連続テレビ小説「なっちゃんの
写真館」のモデル)

 このようなドイツ俘虜作成の郵趣初日便は数多く作られているが、主に確認されてい
るのは大正大礼、平和記念の記念切手を貼付したもので、そのほとんどは本人宛に送
った郵趣便である。この時期ドイツでは“郵便趣味”は所謂“インテリ”の趣味でもあった
ようで、一般にも多くの収集家がいた。「大正大礼」では久留米・福岡・徳島・松山・丸
亀、「平和記念」は久留米・板東が多く、その他の収容所があまり見られないのは収容
所の管理体制が関係しているかもしれない。特に「平和記念」切手は“講和の記念”で
ありドイツ俘虜にとっては“帰国”を連想させたのか、板東収容所では特に多く作成され
ている。


図268

(俘虜製の絵葉書)
 丸亀では
2種の俘虜製絵葉書が知られている。筆者確認の現存数は非常に少なく、
俘虜製の絵葉書では徳島・大分と並び難関のひとつである 
大正5年(1916年)2種の
クリスマスカードが知られているのみである。“富士山”の図案と“プレゼントを担ぐサン
タクロース”の図案である。(
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