第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 102 07.12.11 |
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15) 松山俘虜収容所(その4) |
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(松山ジーゲルマルケ) |
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図440 図441 表面 図441 裏面 |
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松山収容所では、ドイツ語で収容所名の入った青色印刷の封緘紙(図440・ ジーゲルマルケ)が使用されている。松山俘虜宛の到着便にのみ確認されている、 日本の郵趣界では殆ど知られていない謎の封緘紙である。ドイツ俘虜郵便収集の 大家、故ザイツ氏の研究によると「〜第三海兵大隊第六中隊のクレーマン(Robert Kleemann・6K/VSB)が個人的に製作し、少数の友人に配って使用した。検閲され た到着便を他人に読まれないよう再封緘の為に使用した。」とあり、タイプ違いにも 言及している。しかしながら、ザイツ氏が「クレーマン製」と断定している根拠は明ら かにされておらず、筆者が一番知りたかった点である、どこで、誰が再封緘作業をし たかが述べられていない。収容所の検閲官により検閲された後、受取人の俘虜に 届くまでに他の俘虜に読まれるのを防ぐ為ならば、郵便検閲直後に貼付されなけれ ば意味がないのである。たしかに現在筆者が確認したこの封緘紙の使用例では、 クレーマン宛(図441)の使用例が最も多い。筆者確認13点の内、クレーマン宛が 8点、他の5点はワンダーフォーゲルで有名なフィッシャー(Karl Fisher・6K/VSB)宛 であり、1915年12月より1916年12月迄の到着便である。そもそも確認されている松 山収容所宛の封書到着便は驚くほど少なく、筆者は封書ではクレーマン、 フィッシャー宛以外を見たことがないので、これを根拠にクレーマンの製作とは断定 しがたい。 図441は、1916年(大正5年)4月25日ドイツHOCHST発、クレーマン宛の俘虜郵 便の到着便。松山収容所名入紫検閲印と、裏面に松山ジーゲルマルケが貼付され ている。 |
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図442 |
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図442は、1916年12月19日上海発、フィッシャー宛のクリスマスカード。上海の日 本局の俘虜郵便表示印は比較的少ない。松山収容所名入紫検閲印が押され、裏 面に跨り松山ジーゲルマルケが貼付されている。注目してほしいのは、 ジーゲルマルケの上に収容所の検閲印が割印されている事である。このことから、 この封緘紙は日本側検閲官により貼付されたと断定できる。つまり、ザイツ氏の云 うように、クレーマンが自分で製作し、フィッシャーら数人の友人に配布したのなら ば、各々が検閲済郵便物への再封緘を日本側検閲官に依頼したことになる。三百 数十名にもなる俘虜宛に毎日多くの俘虜郵便が到着する中、果たして将校でもな い特定の俘虜の為に日本側官憲がこのような手間の掛かる特典を与えるだろう か。ザイツ氏が「クレーマン製」と断定しているのには何らかの根拠があったはずだ が、残存する松山収容所俘虜宛の封書到着便が少ない現状では、確認するのは 難しい作業になってしまった。 |
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図238 |
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筆者は、この松山ジーゲルマルケは、収容所側により準備された(官憲製)可能 性があると考えている。日本側検閲官に使用された“ジーゲルマルケ”というもの は、検閲開封の「封緘紙」であり、本来検閲側の官憲により準備使用されなければ ならない。郵便史的にいうならば、「プライベート・ラベル」ではなく「オフィシャルな俘 虜郵便検閲封緘紙」なのである。当時の俘虜製・松山収容所新聞等の印刷機材環 境を考えると、技術的にこのジーゲルマルケを製造できたかにも疑問が残る。製造 面から見てみると、板東収容所切手より精度の高い目打(ルレット目打では無い)、 非常に丁寧に為された裏糊(未使用が若干存在する。裏糊の存在は注目すべき点 である。)、収容所側製葉書の青色と色調が似ている、ドイツ語の日本側製封緘紙 は前例がある(俘虜情報局製の非常に良く似た“ジーゲルマルケ”が存在する。図 238)此等は、この封緘紙が「収容所側(官憲)製」であることの傍証になるかもしれ ない。 |
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(追加・補足) 「松山ジーゲルマルケ」について、岡山大学の高橋輝和教授より貴重な情報をい ただいた。高橋教授は青島・ドイツ兵俘虜研究の第一人者で、当時のアメリカ国務 省の指示により在日俘虜収容所の俘虜待遇等を調査したアメリカ大使館書記官 サムナー・ウェルズ報告を発見する等、優れた論考を多数発表されている。今回、 ワシントンの国立公文書館に残されていたサムナー・ウェルズ資料の中に、松山関 連の俘虜郵便が14通存在し、そのうち6通の到着便に「松山ジーゲルマルケ」が貼 付されている事をご教示いただいた。 受取人はクレーマン、フィッシャー以外では筆者初見である複数の俘虜宛で、 R.Linke(MPK・VSB)、F.Schaefauer(Stab.・VSB)宛が各2通、P.Jaehne(5K/VSB)、 B.Mohr(Luetnant d.Res.・VSB)宛が各1通である。このうちLinke宛の1通は1915年 8月23日の受領である。高橋教授も指摘しているように、この資料の発見で、筆者 は「松山ジーゲルマルケ」が収容所管理部により使用された(1915年中頃より収容 所閉鎖頃まで)日本側官憲製の俘虜郵便封緘紙である可能性が高くなったと考え ている。確認された到着便数と複数の受取人俘虜等を総合的に考えると、ザイツ氏 の「クレーマン製」説は、合理的な説明が難しくなってしまった。 貴重な資料とご教示をいただいた高橋教授に、この場をお借りしてお礼申し上げ ます。(平成19年12月) |
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