日独戦争と俘虜郵便の時代 10
      03.01.22

6) ドイツ東洋艦隊の脅威(その1)
 
 今回から数回に渡って、第一次大戦下の日本海軍の動向を追ってみたい。野戦
局や艦船郵便所(海軍軍用郵便所)等の施設を利用出来ない場合(インド洋・地中
海・南ア方面の艦隊、遣米支隊等)は、原則として内地局引受の”軍艦郵便”に準ず
る軍事郵便(無料)を利用している。差出地等は、郵便物上の書込・艦船名・差出人
名・日付等からある程度調べる事が出来るが、情報が足りず解読不能のカバーも
多い。

 開戦すると間もなく、ドイツ東洋艦隊を追って、連合国の海軍はインド洋、及び太
平洋の警戒と捜索を始めた。ドイツ東洋艦隊は、青島を基地にしたシュぺー中将率
いるドイツの誇る精鋭艦隊であった。戦艦シャルンホルスト、グナイゼナウ、ニュー
ルンベルグ、巡洋艦ドレスデン等主力隊は、既に青島基地から出港し消息を絶っ
ていた。その後、主力隊は
1914年9月英領フェンニング島の襲撃を皮切りに、22日
タヒチを襲撃しフランス砲艦ゼレーを撃沈、その後、マルケサス諸島、イースター島
に寄港し南米マゼラン海峡経由で本国への帰還を企てていた。また、インド洋で単
独行動をとった神出鬼没の巡洋艦エムデン(艦長ミュラー中佐)も、
1914年9月14日
にはベンガル湾に出現、英国商船5隻を撃沈、同21日にはマドラスを砲撃するな
ど、ドイツ東洋艦隊は太平洋及びインド洋で猛威を振るっていた。


図34(ドイツ巡洋艦エムデン)

 第一次大戦勃発の前年1913年2月、中米メキシコにてクーデターが起き、マデー
ロ政権が倒され、ウェルタ政権が誕生した。その後、アメリカの介入等もあり、メキシ
コは内乱状態に陥っていた。日本政府は、
同11月20日在留邦人保護の目的で、巡
洋艦出雲をメキシコ西岸へ派遣した。
 第一次世界大戦が勃発すると、メキシコ西岸にいる出雲のカナダ・エスカイモルト
港への派遣と同艦による北米西岸の哨戒を、イギリス海軍が要請(日本参戦前の

1914年8月13日
)してきた。日本が参戦すると、ドイツ東洋艦隊が北米方面に移動す
る可能性がさらに高まり、出雲艦長(森山慶三郎大佐・12月1日少将進級)の指揮の
元、
1914年10月遣米支隊の編成を開始した。また、同月8日に旧式戦艦肥前、11月
10日
には巡洋艦浅間を加え、同19日に編成を完了した。遣米支隊はイギリス巡洋
艦ニューカッスル、他オーストラリア巡洋艦オーストラリア、カナダ巡洋艦レインボー
と共にドイツ東洋艦隊の追跡を行った。


図35

 この絵葉書(図35)は、パナマ運河開通(1914年8月15日)記念サンフランシスコ万
国博覧会(
1915年2月20日開幕・45ヶ国・入場者1300万人)記念葉書で、米国西岸に
いた巡洋艦出雲の乗組員より差し出された、東京宛の軍艦郵便である。無料軍事
郵便でなく、田沢1銭5厘を貼った軍艦郵便なのが面白い。遣米支隊編成開始後の
10月以降の差出であったならば、おそらく無料軍事郵便となっていた事だろう。抹消
印は、軍艦郵便の方式で櫛型・横濱/3.10.4./前10-11が押された。差出日付は
9月
14日
であるが、既に出雲はドイツ東洋艦隊の哨戒作戦を準備していたと思われる。
文面を簡単に紹介すると、「墨国(メキシコ)警備に来たが、日独国交断絶、遂に開戦
となり、引続き或る任務のもとに当方面にて活動、実に愉快に・・・」とある。日独戦
争が青島要塞攻略だけでなく、地球規模の戦いであった事が分かる。

 この遣米支隊が、後の太平洋戦争の原因のひとつになったという歴史家もいる。
横道に逸れるが、簡単に述べておこう。
1913年5月に米国カリフォルニア州(加州)で
排日土地法が制定され、米国内では人種問題を巡り排日運動が盛んで、日本脅威
論(八万とも十万ともいわれるハワイ・カリフォルニア・メキシコ・南米等の日系移民
が日本海軍と同時に蜂起すれば、加州兵約3万では西海岸は簡単に占領される。
というもの)が盛んに流布されていた。
1914年12月に遣米支隊の軍艦浅間がメキシ
コ領マグダネラ湾に座礁すると同艦保護の名目で巡洋艦常盤、千歳を同湾内に追
加派遣したが、米国世論はこれを日本の米国西岸進出への始まりであると警戒し、
排日運動はさらにエスカレートする事になった。


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