日独戦争と俘虜郵便の時代 6 03.01.07 |
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4) 南洋群島の占領(その2) |
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日本海軍による軍政の時代は、俗に”占領南洋”時代とも呼ばれ、第一次大戦終 結後のヴェルサイユ条約(1920年1月10日効力を発生)により終結したが、実際に組 織されたばかりの国際連盟から、C式委任統治領として統治を認められたのは1920 年12月17日である。(連盟規約22条8項の規定により、委任統治条項を定めた)ま た、日本が国際的にこれら南洋群島の統治を宣言したのは、翌1921年4月29日の 事であった。(委任統治条項、外務省告示第16号) この”占領南洋”時代の郵便局はどのようなものだったのだろうか?日独戦争にお ける日本の軍事郵便取扱開始は、1914年(大正3年)8月27日(逓信省告示第521号) からであるが、海軍管轄では当初、海軍省の経営として民間から徴用した御用船 内に、第一から第五までの艦舩郵便所(第六艦舩郵便所については後述)を設置し た。山東半島方面にはのべ9隻の御用船が向かい、大正3年8月以降順次業務を 開始した。大正3年末には山東半島方面は民間商船が運航出来るようになり、翌 大正4年初めまでに同方面の艦舩郵便所は廃止されていった。一方、南洋方面の 艦舩郵便所(海軍軍用郵便所)は大正3年中に、第一・第二・第五の艦舩郵便所が 設置され、その後、海軍直営から海軍省命令航路として、南洋貿易株式会社(第 一・第三・第四)及び日本郵船株式会社(第一・第二・第三・第四)の定期船を利用し た設置形態に変えられていった。 |
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図20 |
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南洋群島へ向かった最初の御用船は、日本郵船株式会社から徴用した神奈川丸 であった。図20は、その第一艦舩郵便所から差出された軍事郵便で、消印は 櫛型・第一艦舩/3.11.17/郵便所とある。神奈川丸は大正3年10月20日横須賀を出 港、各島占領守備隊との交代隊員として、特別陸戦隊員の輸送の任務下にあっ た。同月26日サイパン、その後トラック・ポナペ・クサイと周り、11月15日ヤルートへ 到着した。この葉書の日付は17日であるので、ヤルート島又はそこから帰国の為、 出港直後に書かれたものであろう。神奈川丸の航海士から膠州湾封鎖作戦参加中 の第二艦隊第六戦隊旗艦千歳の乗組員宛てである。青島陥落後なので差出人は 「君ノ方ハ一段落ツイテ御目出度ウ」と結んでいる。 海軍省命令航路としての南洋貿易株式会社経営船内の艦舩郵便所では、大正6 年1月31日をもって「艦舩郵便所規程」を廃止し、翌2月1日より「海軍軍用郵便所規 程」が施行される事になった。これに伴い、郵便消印の印顆も変更された。 |
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図21 |
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図21は、南洋貿易株式会社が傭船した第八多聞丸(御吉野丸から大正5年11月 30日より引継ぎ、内地と南洋の幹線航路で活躍した)の船内に設置された第一海軍 軍用郵便所より差出されたもの。 |
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図22 |
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パラオ島の写真葉書(図22)を使用して、櫛型・第一/6.11.26./海軍軍用郵便所が 押された、東京宛の軍事郵便である。南洋貿易株式会社が海軍省命令航路から撤 退決定(大正6年9月30日)後のもので、おそらく第八多聞丸(第一海軍軍用郵便所) 便の最終便であろう。その後、日本郵船株式会社への命令航路引渡しが大正6年 12月8日に決定され、この第一海軍軍用郵便所は日本郵船の秋田丸に引き継がれ た。 |
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