第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 99      07.12.07

15) 松山俘虜収容所(その1)

松山収容所

大正3年11月11日  開設
大正6年04月23日  閉鎖(板東収容所に移転)
所長  前川譲吉中佐


 
大正3年11月18日高浜港に第一陣俘虜約315名が薩摩丸にて到着、20日約100名
が台東丸にて到着。
松山市は日露戦争時に多数のロシア俘虜を収容しており、早く
からドイツ俘虜の収容所候補地に選ばれている。俘虜は三つのグループに分けら
れ、大林寺、市公会堂、山越地区寺院に分散収容された。収容所移転の為、
大正6
年4月8日
高浜出港、翌9日小松島港到着、板東収容所へ向かう。

(収容所事務所)

 松山歩兵第二十二連隊本部内に開設。収容所職員は左腕に
G”(Gefangenenlager)と入った腕章をつけた。


図419 収容所事務所

(大林寺)

 浄土宗大林寺は、松山市宮古町にあった松山城主久松家の菩提寺。日露戦争時
には松山最初のロシア俘虜収容施設として、後に陸軍病院としても利用されてい
る。ドイツ俘虜収容人数は81名が記録されいてる。


図420 板東収容所俘虜製収容所地図より


421 大林寺正門

(市公会堂)

 松山市萱町二丁目にあった市公会堂。日露戦争時にロシア俘虜を収容している。
裏手には手入れの行き届いた日本庭園と池がある松山最大の収容施設。ドイツ俘
虜収容人数は180名。


図422 板東収容所俘虜製収容所地図より


図423 正面入口俘虜集合写真


図424 公会堂の俘虜

(山越地区)

 山越地区の収容所寺院は、日露戦争時旅順陥落の俘虜増加に対応して増設さ
れた複数の寺院収容所。日独戦争では5寺院(来迎寺、浄福寺、不退寺、長建寺、
弘願寺)が使用された。ドイツ俘虜収容人数は135名、将校俘虜の収容先は来迎寺
であった。


図425 板東収容所俘虜製収容所地図より


図426 左より来迎寺、浄福寺、不退寺、長建寺


図427 将校俘虜収容所・来迎寺


図428 長建寺のドイツ俘虜


図429 弘願寺で大正5年12月15日に開催された松山独逸俘虜技術工芸品展覧会

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