第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 86      06.07.07

11) 熊本俘虜収容所

熊本収容所
大正3年11月11日  開 設
大正4年06月09日  閉 鎖(久留米収容所に移転)
所 長  松木直亮少佐


図343 横手村・妙永寺のドイツ俘虜

 熊本市内の県物産館を中心とし、横手村の6寺院、細工町の3寺院を合わせた分散収
容所。
大正3年11月16日に、第一陣約340名が到着。以後到着した俘虜を含め総数約
650名。(最大時約780名・大分収容所に約130名移転)
大正4年6月9日、久留米バラック
収容所に移転の為閉鎖された。

(熊本市内南千反畑の県物産館・県農会事務所)

 県物産館集議所を将校宿舎、米穀検査所を従卒宿舎、県農会事務所に本部事務所

(横手村出張所)

 妙永寺、長国寺、正立寺、禅定寺、妙立寺、実成寺

(細工町出張所)
 西光寺、光善寺、阿弥陀寺


図344

 344は、大正3年12月17日熊本坪井局発、第三海兵大隊第四中隊のキースリング
(Otto Kiessling・4K/VSB)差出、ドレスデン宛の熊本収容所初期使用例。

 大正3年11月〜大正4年1月末まで
は、熊本収容所の郵便検閲印は“検閲済”枠付朱
印、俘虜郵便表示印は“SDPDG”朱印が使用されている。


図345

 
345は、大正4年1月26日熊本坪井局発、第三海兵大隊第五中隊、予備陸軍少尉
ドクターヴィル(Dr.Eduard Will・5K/VSB)差出、天津のドイツ人宛。検閲印も同上初期
タイプ。

 
大正4年2月より収容所名入郵便検閲印(図346、紫印)の使用が開始、収容所閉鎖ま
で使用されている。俘虜郵便表示印は、欧文の“SDPDG”朱印が引続き使用された。


図346


図347

 
347は、大正4年2月19日熊本坪井局発、海軍野砲中隊の(Ernst Fuetterer・M.F.B.)
 差出、上海のドイツ人宛。収容所名検閲印初期使用例。


図348

 
図348は、大正4年5月27日熊本坪井局発、第三海兵大隊第四中隊のザイフェルト
(Richard Seifert・4K/VSB)差出、ドイツ宛使用例。ザイフェルトは、農業の専門家で解
放後も日本に留まっている。収容所移転が迫っている為、差出収容所名を熊本から久
留米に書き直している。


図349

 
349は、1915年(大正4年)2月23日ドイツのゲッティンゲン発、シベリア・敦賀経由、
熊本収容所宛俘虜郵便。フランクフルトの郵便検閲印が見える。受取人は第三海兵大
隊、予備中尉マイヤーマン(Dr.Bruno Meyermann・VSB)。青島陥落時、ドイツ軍により
降伏の白旗の掲げられた青島測候所の所長であった。

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