第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 78      05.06.22

08) 俘虜郵便の検閲(その3)

 大正3年末時点の青島残留ドイツ俘虜は、日本軍への引継ぎと残務整理に必要
な各専門分野のドイツ兵、入院中の傷病兵、新たに拘束された軍籍のあるドイツ人
等であったと考えられている。前回、青島若鶴俘虜収容所(モルトケ兵舎)の写真を
紹介したが、これらのドイツ俘虜については不明な事も多く、筆者も具体的な資料
は見つけることが出来なかった。彼らが発受した俘虜郵便については、日独戦争第
一部(35回、図125)で青島守備軍病院に収容されたドイツ俘虜が受取った俘虜郵
便を紹介する事が出来たが、残留ドイツ俘虜が発信した俘虜郵便を、筆者はまだ
確認していない。

 青島市内の郵便局は、日本軍の撤退(1921年末)に至るまで(大正7年11月、普通
郵便局併置という形をとっている)、実質上の青島守備軍の“野戦郵便局”であった
事は第一部で述べた。青島残留ドイツ俘虜の俘虜郵便の検閲については、これら
の郵便局での軍管轄の検閲官による郵便検閲が可能なはずで、再検閲を必要とし
た場合は、青島守備軍司令部、東京の俘虜情報局が補足したと考えられる。この
度、これらに関連する非常に興味深い使用例が見つかったので、ここで紹介してみ
たい。



図290 櫛型・青島/4.9.10/野戦局

 
大正4年(1915年)9月10日、支那加刷菊切手計10銭を貼り、青島野戦郵便局より
門司中継、ドイツまで送られた外信使用例である。差出人のドイツ人フォスカンプ
(C.J.Voskamp)は、1859年宣教師の家庭に生まれ、自身も宣教師の道を選びドイツ
の膠州湾租借地獲得とともに青島に移り、青島ベルリン福音教会の教区監督者と
なった人物である。
 
この使用例で非常に興味深いことは、差出人フォスカンプが自らを“戦時俘虜”
Kriegsgefangener)とわざわざ明記していることである。しかしながら、俘虜郵便とし
ては扱われず、郵便切手を貼付した青島野戦郵便局差出の普通郵便として差出さ
れている。また、非常に珍しい青島守備軍司令部の検閲印が表面に押印され、裏
面に封緘印として青島野戦郵便局の軍事検閲印が再度押印されている。

 
宣教師フォスカンプには、夫人と四人の息子がいた。長男ヨアヒム(Joachim
Voskamp)
は、第三海兵大隊第六中隊(6K/VSB)で青島攻防戦に参加し、陥落後
は俘虜となり日本に移送(熊本、後に久留米)されている。次男ゲルハルト(Gerhard
Voskamp)は、一年志願兵として第三海兵大隊第七中隊(7K/VSB)で戦闘に参加
し、大正3年11月4日中央堡塁付近で戦死している。C.J.フォスカンプ自身は、陥落
前に夫人、三男、四男と共に上海に避難し、陥落後青島に戻っているので民間人
の扱いだったと考えられる。

 陥落後の青島在住ドイツ人は、少なからず青島守備軍により行動の自由を制限さ
れていたはずである。旧ドイツ租借地時代の青島ドイツ人社会で影響力を持ち、次
男を戦闘で亡くしているフォスカンプは、殊更に青島守備軍の厳しい監視下にあっ
たと考えられ、ドイツ宛のこの手紙に、自らを“戦時俘虜”と明記した事に、筆者は彼
の日本軍に対する明確な“反抗の意思”を感じるのである。
 青島野戦郵便局がフォスカンプ差出郵便物を青島守備軍に一度回送しているの
は、要職にあったフォスカンプの影響力を考えての事であろう。青島守備軍の検閲
後、青島野戦郵便局で郵便切手抹消の上、裏面に封緘検閲印が押されている。ま
たは、フォスカンプ自身が実際に“戦時俘虜”と同等の立場にあり、自ら青島守備軍
に差出申請をしたが、青島守備軍では彼を“戦時俘虜”とは認めず、普通郵便とし
て差出を許可した可能性も挙げておきたい。

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