第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 68      04.10.06

04) 日本人俘虜(その2)

(戦時喪失船・日本郵船)
 戦局の進展に伴い民間船欧州航路は(インド洋・地中海・大西洋等)、ドイツ潜水
艦・ドイツ武装商船等の脅威の中も維持されてきた。しかしながらその代償も大き
く、日本郵船では5隻の船を損失し多くの犠牲者も出している。


八坂丸 山脇武夫船長   欧定復路 1915.12.21.没   ポートサイド付近 死者無
宮崎丸 太田義一船長   欧定往路 1917.05.31.没   イギリス海峡 死者8名
常陸丸 富永清蔵船長   欧定往路 1917.09.26.拿捕 インド洋 死者(拿捕時13名)

徳山丸 寺田常太郎船長 欧臨復路 1918.08.02.没   大西洋 死者無

平野丸 フレザー船長   欧定復路 1918.10.04.没   アイルランド南方 死者210名

 八坂丸は、
大正4年(1915年)12月21日、ポートサイド付近においてドイツ潜水艦の
警告雷撃を受け、約50分で沈没、船客120名、乗組員162名は全員無事フランス
駆逐艦に救助されている。この為、
同12月横浜出港の三島丸よりスエズ・地中海経
由は休止し、南ア喜望峰迂回航路をとる事となった。

 
大正6年(1917年)2月よりドイツの無制限潜水艦作戦が始まり、欧州航路の危険は
更に高まり、
同年3月横浜出港の宮崎丸から海軍省監督のもと簡易武装し、一部区
域では連合軍艦艇の護衛を受けている。


(ドイツ仮装巡洋艦ヴォルフ・ウルフ・Wolff)
 
1916年より1918年にかけて、欧州航路上インド洋を中心に暗躍した神出鬼没の仮
装巡洋艦ヴォルフによる、連合国側船舶の被害が問題となっていた。ヴォルフは

1907年
進水のブレーメル・ハンザ汽船ワハトフェル号を改造した武装商船(5600t・
速力13.5k・艦長ネーゲル海軍少佐)で、
1916年11月29日ドイツ・ヴィルヘルムスハ
ーフェンを出港、
翌1月喜望峰を経て、2月よりインド洋を中心に連合国側船舶の海
上封鎖、それに伴い連合国民間船舶の物資、燃料、食料等の略奪を始めた。


図262 ドイツ仮装巡洋艦ヴォルフ・ウルフ・Wolff
「印度洋の常陸丸」 長谷川伸著 1962年 新小説社 より

 ヴォルフにより拿捕、撃沈された主な民間船:(英)トルテラ号、(英)シャムナ号、
(英)ワ
ーズワース号、(米)ジー号、ワイルナ号、(英)ウィンスロー号、バルガ号、
(英)エンウール号、マツンガ号、(日)常陸丸、(西)イゴツメンジ号
 (英国汽船5、英国帆船2、米国帆船2、スペイン汽船1、日本郵船1)


 
1917年末ヴォルフは拿捕、撃沈した船舶の乗客・乗組員俘虜を輸送する為、本国
への
航海を開始した。
1918年2月末キール軍港に到着し、ヴォルフ収容俘虜の各地
収容所移送が開始された。ドイツ国内の俘虜収容所に送られたヴォルフの日本人
俘虜は、ジー号(日本人乗員1名・下村林蔵)、ウィンスロー号(日本人乗員1名・村
上安之助)、常陸丸(日本人乗員百余名、乗客3名)であった。


(欧州の日本人俘虜)
 第一次世界大戦中に、ドイツ、オーストリア・ハンガリー国内の俘虜収容所に拘留
され、スイス国際赤十字委員会・各国情報局により公式に認められた、日本人戦時
俘虜の記録を紹介したい。
 
大正7年(1918年)12月17日、日本陸軍省俘虜情報局は陸軍大臣官房宛に「在獨
墺洪國被拘留、解放及死亡日本人名簿」(欧受第1989号、俘受第4100号)を提出し
ている。第一次世界大戦での欧州の日本人俘虜について、ドイツ陸軍省情報局、
オーストリア・ハンガリー俘虜情報局、スイス国際赤十字委員会等の情報をまとめ
たもので、俘虜氏名、人数などの基本資料となっている。


・日本俘虜情報局がまとめた欧州の日本人俘虜人員表(1918年6月)

ドイツ国  俘虜(内女性3名)129名、解放者10名、死亡者17名
 (死亡者には常陸丸拿捕時の戦闘による死者を含む)
オーストリア・ハンガリー国  俘虜(内女性3名)6名

・ドイツ国内俘虜収容所の日本人俘虜

1918年3月23日付スイス国際赤十字委員会送付のドイツ陸軍省作成俘虜名簿、
 及1918年6月26日付ドイツ陸軍省中央情報局送付俘虜名簿より)

ワーンベック(15)、ブランデンブルグ(6)、ギュストロー(82)、ゾロタウ(1)、クウネブルヒ
(2)、ゴツトブス(1)、ライプチヒ第一(3)、ライプチヒ第二(2)、ライプチヒ労役所(6)、ハイ
ルブロン(5)、ホルツミンデン(1)、セレシュロス(1)、ハーベルベルグ(1)、ドユルモン
(1)、セルレ(1)、キール衛戍病院(1) (地名仮名綴りは原文のまま)


・主な在ドイツ収容所日本人俘虜の身分

民間船乗員乗客、露軍義勇兵、商人、美術家、神官、職人及技師、日本軍人、その
他(日本軍人は3名。常陸丸乗客の海軍機関少佐白石研吉、ライプチヒに留学中の
盛岡砲兵連隊後備中尉植村勝次、ケーニヒシュタインで拘束された予備將校上村
勝次)

・日本人俘虜収容のオーストリア・ハンガリー国内収容所

興行師6名:ブタペスト(5)、ユマロン(1)

 ドイツ国内収容所より解放された日本人俘虜10名は、その殆どがドイツ国内で就
業・留学中の身であった日本人(美術家、商人、製菓人、鍛冶屋、学生等)で、日独
国交断絶直後に拘束されている。厳重な身元調査の後、民間非戦闘員と判断され
1914年10月中にはドイツ国内で解放(9名)されている。
 
残りの1名は、
1915年(大正4年)以降に拘束された日本人俘虜で、唯一終戦前に
解放されている。
1916年夏、大西洋上で俘虜となった民間船小雛丸船長若澤多吉
は、敵国艦艇によりアドリア海を経てオーストリア・ハンガリー国内に(モンテネグロ
付近)入り、カッタロ要塞内収容所に仮収容された。
二ヵ月後、現地海軍司令官によ
りドイツ移送が決定され、その後ドイツ国内ハーベルベルグ収容所に移動、
1917年
(大正6年)10月13日
ドイツ陸軍省命令により解放されている。全拘束期間約一年二
ヶ月
であった。ドイツ北岸ザスニツより中立国船にてスウェーデン国トレルボルイに
到着
(10月16日)、同地よりストックホルムに到着(10月18日)し、内田公使の保護下
に入った。その後、シベリア経由にて陸路韓国に向かい、
10月30日釜山より高麗丸
にて無事下関に帰国している。


263 大正6年11月1日、若澤氏帰国の報、東京朝日新聞

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