第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 65      04.08.10

03) 赤十字(その1)

 戦時俘虜の取扱いを含む近代国際戦争法規の歴史は、1864年のジュネーブ条約
(赤十字条約)から始まった事は先に述べた。その後のハーグ条約
(1899年・1905
年)
、ジュネーブ条約(1929年)、また、第二次世界大戦の挫折を乗越えた今日の
「ジュネーブ条約」に至るまで、様々な問題を抱えながらも発展拡大している。ここで
は、国家間の国際合意を目標としたこれらの活動の原点ともいえる、“赤十字”を取
上げてみたい。


 
1859年イタリア統一戦争を体験したスイス人ジャン・アンリー・デュナン(1901年
最初のノーベル平和賞受賞)は、その戦争犠牲者の悲惨さを目の当りにし、「ソルフ
ェリーノの思い出」という本を出版、国際的な救護組織の設立を訴えた。彼の活動
は各国に反響を呼び、ジュネーブに国際負傷軍人救護常置委員会(五人委員会)
を設立、
1863年最初の国際会議を開催し「赤十字規約」が定められた。1864年国家
間の国際会議として「ジュネーブ条約・赤十字条約」が締結され(16ケ国中12ケ国が
調印)、ここにスイス・ジュネーブを本部とする「国際赤十字」が発足した。(国際赤十
字のシンボルである赤十字旗は、デュナンに敬意を表しスイス国旗から作られたと
いわれているが、歴史的に「十字」を好ましく思わない中東諸国等では、現在月をか
たどった赤新月旗をシンボルとし、赤新月社として活動している。)


 日本赤十字社についても簡単に述べておく。
1877年(明治10年)の西南の役に際
して、元老院議官佐野常民(フランス・オーストリア訪問時に赤十字組織を知る)、大
給恒の二人により戦時の人道的救護組織の必要性が訴えられた。
同年5月、二人
は官軍の征討総督・有栖川宮熾仁親王に「博愛社」設立を許可され、官薩両軍の
負傷兵救護に活躍した。西南の役後、博愛社は初代総長として小松宮彰仁親王を
迎えている。

 
1886年(明治19年)6月5日、日本政府はジュネーブ条約に加盟。これに伴い
1887年5月20日
博愛社は名称を「日本赤十字社」に改め、9月2日国際赤十字委員
会の承認のもと正式に国際赤十字の一員として認められている。また、
1901年(明
治34年)
、日本赤十字社は民法の適用を受け社団法人となった。

(第一次世界大戦時・大正時代の日本赤十字社の代表)

     第三代総裁(明治36年3月〜昭和20年5月)
      閑院宮載仁親王(陸軍大将・陸軍元帥)

     第三代社長(大正元年12月〜6年2月)
      花房義質(1915〜英仏露に日赤救護班を派遣)

     第四代社長(大正6年2月〜9年9月)
      石黒忠悳(元陸軍軍医総監・貴族院議員男爵)
     第五代社長(大正9年9月〜)
      平山成信(貴族院議員・枢密顧問官・関東大震災救援で活躍)


図253

 
253は、1918年(大正7年)5月5日着信、中立国スウェーデン王グスタヴ五世の
第二王子カール・ヴィルヘルム・ルードヴィヒ(Karl Vilhelm Ludvik
1884-1965)より
日本赤十字社に送られた電報である。(ストックホルム局発信、東京芝局着信)「戦
時俘虜に関して、スウェーデン国から日本陸軍省に対して行った申請について、日
本赤十字社からもサポートしてほしい」という内容で、申請した内容については不明
だが、陸軍大将でもある閑院宮載仁親王が総裁を務める日本赤十字社が、陸軍省
(俘虜情報局)に対してある種の影響力を持っていたこと示している。


 第一次世界大戦に際して、スウェーデンは、国王グスタヴ五世の呼びかけにより
ノルウェー(国王ホーコン七世)、デンマーク(国王クリスチャン十世)と共に「三国国
王会議」を開催し(第一回マルメ会議
1914年12月・第二回クリスチャニア会議1917
年11月
)、北欧三国の中立堅持と相互協力を確認している。しかしながら、スウェー
デンの王妃ヴィクトリア(父:バーデン大公フリードリヒ一世)がバーデン家の出身で
ある事もあり、親ドイツ的であった事は否めない。この電報の申請内容が王妃の意
向による在日ドイツ俘虜の待遇改善等であったのならば、中立堅持の建前上、国
王グスタヴ五世や王位継承権のあるグスタヴ六世アドルフではなく、第二王子カー
ルの名における申請のほうが無難と考えたのかもしれない。


 国家間の国際戦争法規は、ハーグ条約
(1899年・1905年)において一応の成果あ
げた。また、条約下の俘虜取扱い規定では、赤十字理念に基づいた国家間の取決
めとして、第二次ハーグ条約で義務化された俘虜情報局の設置により各国俘虜情
報の共有が要求されている。
 
赤十字機関発受の戦時郵便(赤十字通信)については、戦時俘虜・行方不明者・
戦時離散家族の情報収集等、国際赤十字委員会(ICRC)及び各国赤十字機関を
通して各国俘虜情報局・各国政府機関の協力のもと行われ、条約締結国は条約の
規定する“俘虜郵便”として取扱っている。



図254

 
254は、大正4年(1915年)4月24日発信、熊本収容所の俘虜ノイゲバウアー
(Anton Neugebauer・オーストリア巡洋艦カイゼリン・エリザベート乗組員)よりデンマ
ーク・コペンハーゲン赤十字社宛の俘虜郵便である。熊本収容所の検閲印、熊本
坪井局の引受印、門司局経由で
6月4日のコペンハーゲンの到着印が押されてい
る。



図255

 
255は、1916年(大正5年)9月21日、ドイツ・ケルンの赤十字ドイツ俘虜委員会発
信の俘虜郵便で、福岡収容所の俘虜ユング(Julius Jung・海軍砲兵隊・MAK)宛の
赤十字慰問金(20マルク)送付通知である。福岡収容所宛だが大分収容所に送ら
れ同収容所の検閲印が押されている。ユングは福岡収容所から名古屋収容所に移
送された記録があるが、一時的に大分収容所に移送されていたのかも知れない。

ご意見・ご感想は当社迄 でお願い致します。 目次へ