第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 64      04.07.26

02) 俘虜情報局(その4)

 俘虜情報局では、日本各地に収容されていた青島ドイツ俘虜の郵便検閲も行って
いる。俘虜の発受する私的な俘虜郵便の検閲である。俘虜発受の俘虜郵便は、基
本的に各収容所での独自の郵便検閲により処理されているが、俘虜情報局経由の
物も知られている。



図249

 図249は、大正4年(1915)3月6日ベルリン発、松山俘虜収容所のドイツ俘虜宛の俘
虜郵便である。ベルリンの情報局の検閲印が押され、中立国経由シベリア鉄道ル
ートで運ばれている。敦賀局を中継し俘虜情報局に転送検閲され、松山収容所に
送られたと考えられる。なぜ俘虜情報局の検閲が必要とされたかは内容物が無い
ので断定は出来ないが、初期型の情報局検閲印が押された貴重な使用例である。


 松山収容所の受取人フィッシャー(Karl Fischer)は、第三海兵大隊第六中隊・予
備副曹長(6K/VSB)として、上海の東亜ロイド新聞に勤務していたが、日独開戦に
伴い青島に召集されている。また、ベルリン時代のフィッシャーは、日本でも馴染み
の深い「ワンダーフォーゲル」(1901年・青年徒歩旅行奨励会)の設立者の一人とし
ても知られ、初期のワンダーフォーゲル運動の指導的立場にあった人物である。


図250

 
図250は、米国領事館差出、福岡収容所宛の郵便である。付箋跡があるので、引
受局では俘虜情報局の検閲が必要と考え、付箋に俘虜情報局転送を指定した物と
考えられる。俘虜情報局の検閲印の他、その後の郵便印は見当たらない。受取人
のヴェーゼマン(Walter Wesemann・3K/OMD)が名古屋収容所に移送される前なの
で、
大正4年末から5年の使用例と考えられる。


図251

 
251は、板東収容所製の封筒で、同収容所のドイツ俘虜差出
(Franz Schattschneider・海軍砲兵隊第五中隊・5K/MAK)、上海のオランダ総領事
館宛の俘虜郵便である。同収容所の高木大尉の検閲印と俘虜情報局の検閲印か
ら、
大正8年(2月28日差出)の使用例と分かる。封筒には高木大尉直筆と考えられる
「情報局経由」の筆書があり、内容物により情報局で再検閲が必要と判断されたも
のであろう。



図252

 
252は、大正8年3月、久留米収容所のドイツ俘虜差出(Richard Schmidt・第三
海兵大隊工兵中隊・VSB)、上海のオランダ総領事館宛の俘虜郵便である。久留
米収容所の検閲印、俘虜情報局の検閲印が押され、情報局の検閲封緘紙で閉じら
れている。
久留米収容所で検閲後、俘虜情報局に送られ再検閲された。その後、麹
町局(
櫛型・麹町/8.3.17)で引受けられ、上海局の到着印が押されている。

 
筆者は20例ほどの、俘虜情報局が検閲中継したドイツ俘虜発受の私的な俘虜郵
便を見る機会があったが、分類してみるとある特徴が浮びあがってきた。

 
今回紹介した使用例を見てみると、ドイツ俘虜宛の到着便(
249)では、俘虜情報
局の検閲後の郵便印が見られない。アメリカ領事館差出、ドイツ俘虜宛郵便物(

250
)でも、付箋跡があるので俘虜情報局までの郵便印が付箋上に押されたものと
すれば、やはり俘虜情報局検閲後の郵便印がない。さらに、ドイツ俘虜差出の俘虜
郵便(
図251・252)では、各収容所管轄の引受局の郵便印が押されていないのであ
る。

 
結論としては、「俘虜情報局と収容所相互間の俘虜郵便は、基本的に閉嚢された
まとめ便として送られた」という推測が成立つ。俘虜情報局から各収容所宛の転送
すべき俘虜郵便は、宛先の収容所ごとに常時複数あったと考えられ、また、各収容
所から再検閲の為俘虜情報局経由とされた俘虜郵便も、一度に複数あったと考え
るのは妥当であろう。収容所ごとのまとめ便による発受の方が、俘虜情報局の検閲
作業において合理的であった事は間違いない。各収容所においても、俘虜情報局
から到着した俘虜郵便は再検閲する必要が無く、筆者が確認した情報局経由の到
着便は、全て収容所の検閲印が省略されている。

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