日独戦争と俘虜郵便の時代 37      03.07.30

18) 青島野戦郵便局と郵楽

「郵楽」創刊号表紙
図129

 日本で最初の本格的郵趣雑誌といえば、大正37郵楽会(木村梅次郎氏)によ
り創刊された「郵楽」であろう。(
129 創刊号表紙)文化的に高度な知的趣味とし
て、切手収集をわが国に普及させた「郵楽」の功績は大きい。木村氏は大正元年
郵楽会を創立し、翌年には日本最初の切手展覧会(会場・読売新聞社)の開催にも
成功した。また、専門的な研究も分野を問わず関心を持ち、日本人による総合切手
カタログの製作にも全力を注ぎ、大正
5年には「大日本郵便切手類鑑」を発行してい
る。「郵楽」が発刊されたのは、昭和
5年までの17年間であるが、その間木村氏の功
績は世界にも認められ、英国をはじめ欧米の郵趣倶楽部の会員としても活躍してい
る。

 
「郵楽」は日本の郵趣雑誌として初めて、日独戦争の郵便事情についてリアルタイ
ムの報告記事を掲載している。軍事郵便の性格上、当時その実態の把握には制限
があったはずで、現在の研究記録と比べれば完成度も低く、データとしては役に立
たないものも多い。しかしながら、当時の現在進行形のリポートは今日の郵便史研
究のあり方にも大いに参考となるはずで、その後の“青島軍事”発見リポート等、そ
の時代の“生の声”の重みは尊重すべきものであろう。ここでは、「郵楽」の木村梅
次郎氏による日独戦争野戦局印等の報告記録を見てみよう。

17号(大正42):青島陥落前第三野戦郵便局櫛・第三/3.10.11./野戦局
の報告である。差出地や野戦局状況等詳細不明の為、読者に情報提供を募って
いる。現在の記録では、
31011時点の第十八師団郵便部第三野戦郵便局
は即墨にあった。これが、日独戦争関連郵便印が郵趣界に報告された最初の記
録である。

1巻10号記事抜粋
図130

110号(大正45):(130)この号では、海軍の艦船郵便所(第四、第五、
第六)が報告されている。また、
大正441以降に青島野戦郵便局(佐賀町)
で使用された地名入野戦局印も報告され(
櫛・青島/4.4.12./野戦局)、軍事封緘
葉書や支那加刷切手の使用状況にも言及している。特に地名入野戦局印の使
用については、現地での使用開始から一ヶ月程で原稿を仕上げているので、そ
の情報収集の速さには驚かされる。前号で情報提供の告知を出してはいるが、

41に“第一野戦郵便局”が“青島野戦郵便局”と改称となった事など、この時
点には現地の者しか知りえないような情報も含まれている。
111号(大正46):第二、第三艦船郵便所、第十一野戦局印などの報告
112号(大正47):第一艦船郵便所、第十四野戦局印などの報告

1巻10号掲載品
図131

 
131は、長らく行方不明になっていて、この度80余年ぶりにその存在が確認され
たものである。この使用例は、日独戦争での
A欄地名入野戦局印が郵趣界に初め
て報告された記念すべきもので、「郵楽」
110号(
130)に掲載されたものである。
「郵楽」では切手と消印部分しか分からないが、ここにその貴重な記録を紹介しよ
う。


 支那加刷菊1銭、同旧大正毛紙5厘を貼った一般の郵便物で、青島の差出人が
東京麹町高田商会の木村梅次郎宛に送った“郵趣リポート”である。木村氏のもの
と思われる私製の受取日付印(
APR.18.1915)が押されている。「郵楽」の5月号(1
10号)に載せる為にはギリギリの到着であったことだろう。青島野戦郵便局への
名称変更(
大正3年4月1日より)から僅か2週間程後の差出しで、A欄地名入野戦
局印の使用例としても極初期のものである。


 「〜当地郵便局は、占領時より三月三十一日迄“第一野戦郵便局”と称し、四月一
日より“青島野戦郵便局”と改称せられし事。切手は、上海その他の日本郵便局使
用の支那切手
を貼用附〜」

 「郵楽」の記事を読むと、明らかにこの葉書のリポートを参考に書いているのがわ
かる。


 青島佐賀町の青島野戦郵便局は、前述のとおり、短い期間に師団郵便部“第三
野戦郵便局”から守備軍逓信部“第一野戦郵便局”そして“青島野戦郵便局”へと
名称を変更している。第一野戦郵便局時代の同局では、
大正3年1228より他
局に先立ち切手類(支那加刷)の売捌も開始されている。また、青島市内の郵便局
で、
大正4中に追加開局となった野戦郵便局としては、青島大鮑島(46)、
青島大港(
411)が記録されている。

軍事郵便
図132

 
図132は、青島野戦郵便局員が同局(佐賀町)より差出したもの。守備軍逓信部管
轄であるので、軍事郵便が許可されている。(
櫛型・青島/4.7.28./野戦局)

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