日独戦争と俘虜郵便の時代 34 03.07.07 |
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16) 青島のドイツ企業(その1) |
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青島に軍政が布かれると、原則として青島ドイツ官営企業は青島守備軍に接収さ れた。また、ドイツ民間企業、個人財産等は日本側に買収されるものも多かったが、 基本的には軍政治下に管理保護されている。ここでは、日独戦争に影響をうけた青 島のドイツ官営企業と民間企業の中から、それぞれ代表的なものを取り上げてみた い。 ・青島屠獣場 |
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図120 |
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ドイツ官営青島屠獣場(図120)は、当時東洋一の規模を誇り、その最新設備からい っても、ドイツが青島に有した最も誇らしい施設のひとつであったといえよう。 1904年起工、1906年6月竣成(建設工費85万マルク)、場内には最新の牛屠室、豚 屠室、機関室、冷蔵庫、研究室、病獣隔離所等の諸設備などを完備し、一日8時間操 業の屠殺能力は牛300頭、豚150頭であった。 日本軍による青島占領後は、青島守備軍により接収、日本官営企業として経営さ れることとなり、場内設備の修繕整理がいち早く行われ、大正4年(1915年)1月2日よ り業務が再開されている。基本経営方法はドイツ式を踏襲し、屠獣肉検査の他、冷蔵 製氷、獣疫調査、付属の種畜場における種付け及び搾乳など、最新畜産技術の日 本への普及にも大いに役立つものであった。また、日本独自の改善も加えられ、牛の 屠殺数だけをみても大正4年度(8135頭)から大正6年度(25,672頭)と、その規模は 飛躍的に大きくなっている。屠牛の輸出先としては、大正4年度はウラジオストックが 一番多かったが、経営拡大にともないフィリピンへの輸出が増え、大正6年度には一 位マニラ(11,902頭)、二位ウラジオストック(8,241頭)、三位日本内地(662頭)、四位大 連(661頭)、五位上海(5頭)となり、年間輸出合計も21,471頭を数えるまでになった。 |
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図121 |
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図121は、青島屠獣場から静岡宛の大正7年年賀状である。青島屠獣場は青島守 備軍総務部管轄であったので、職員や監督者等は軍属(陸軍)と見なして無料軍事 郵便が許可されている。(櫛型・青島/7.1.1./野戦局)裏面には青島屠獣場写真と、大 正6年度の業務報告(1月〜10月迄)が印刷されている。輸出関連の項目には、10月 中旬にウラジオストック向け一万頭の屠殺申込みを受け、さらに内地向けも着々と 増加していると記されている。 |
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