日独戦争と俘虜郵便の時代 32      03.06.16

14) 近代兵器 (その4)

・航空機

 ライト兄弟()が初の動力飛行に成功したのは
1903の事であるが、その後の航
空機の発展にもっとも影響を与えたのは、第一次世界大戦での軍事利用かもしれ
ない。偵察が主な任務の戦争初期の複葉機から単葉戦闘機まで、短い期間に世界
中で新しいモデルが次々開発され実戦で活躍している。

 世界初の航空機軍事使用は、
1911伊土戦争でのイタリア軍が使用したニューポ
ール機といわれている。偵察が任務だったが手榴弾投下などもしたようで、これを飛
行機による世界初空襲とみる研究家もいる。小型爆弾の投下という点では、一般的
1914830ドイツ軍によるパリ爆撃が世界初空襲と記録されているようだ。
 また、エースパイロットという呼名もこの時代に生まれている。語源には諸説ある
ようだが、カードのエース(切札)から撃墜王にその称号が与えられたらしい。(フラ
ンス軍が士気を高める為採用し、その後各国に広まった。各国5機、又は
10機撃墜
者に与えている)

 
19158ドイツ軍フォッカーE型単葉機が連合軍を圧倒、1916連合軍デハビ
ランド(
D.H.2)機やニューポール機等の導入により反撃。
同年8ドイツ軍アルバト
ロス
D型機導入により再び優勢。
1917イギリス軍ソッピース・キャメル機活躍、8月
ドイツ軍フォッカー
D.R.1(三葉)を導入。
1918ドイツ軍第一次大戦の傑作機フォッ
カー
D.7を導入・・・。欧州戦線の航空機の変遷を極簡単に書いたが、この時代のノ
スタルジックな航空機は、多くの愛好家の心を掴んでいるという。興味のある方は
調べてみたらよいだろう。
 第一次大戦中最も有名なエースパイロット(撃墜王)としては、ドイツ軍のマンフレ
ット・フォン・リヒトホーヘンの名前が挙げられよう。彼の愛機である紅に塗られたフ
ォッカー
D.R.1(三葉)機は、敵味方を問わず、尊敬と畏怖の念をもって「レッド・バロ
ン」と呼ばれた。
80機の撃墜を記録し(撃墜の多くはアルバトロスDVによる)、一躍
ヒーローとなった。今日でも、「レッド・バロン」の名は、ニヒルなヒーローのイメージで
度々取り上げられている。(最近では、宮崎駿監督映画「紅の豚」もレッド・バロンが
モデルかもしれない。)

 
日本人による日本初飛行は、
明治43年(1910年)1219、東京代々木練兵場
(現代々木公園)で、陸軍の徳川好敏大尉(午前
755分・
3000m、アンリ・ファルマ
ン複葉機、
50馬力・フランス製)と日野熊蔵大尉(同日午後・700m、ハンス・グラーデ
単葉機、
24馬力・ドイツ製)により記録されている。
 また、日本初の“航空郵便”としては、試験的ではあったが、
明治45(1912年)6
1東京横浜間において、アメリカ人飛行士アットウォーター(カーチス水上機)が成
功している。


図108 飛行通信京浜間飛行大会記念絵葉書

 青島攻略戦では、陸海軍飛行機が初陣を飾った。海軍航空隊は、膠州湾封鎖艦
隊所属運送船・母艦若宮丸にモーリス・ファルマン水上機(ルノーエンジン・
70馬力・
モ式国産機)4機を搭載し、操縦者・搭乗員
13名(資料により誤差あり)で実戦に参
加する事となった。(ちなみにモーリス・ファルマンは、アンリ・ファルマンの弟であ
る。)
 
大正395、膠州湾より初出撃を行ない、青島港上空より偵察飛行、及びド
イツ青島守備軍無線電信信号所、海軍大隊兵営に小型爆弾を投下している。これ
が、日本軍航空機の実戦初飛行・初空襲であった。(金子少佐・和田大尉・武部中
尉による・戦果不明)

 その後、海軍航空隊は、沙子口海岸に根拠地を設営し、偵察・攻撃に活躍してい
る。


図109 海上より飛立つモーリス・ファルマン水上機


図110 モーリス・ファルマン水上機と海軍航空隊

 陸軍航空隊(指揮官徳川大尉)は、師団主力とともに大正39初旬龍口に上陸
し、
16より飛行開始、20即墨の着陸場へ配備された。陸軍にはニューポール
NG単葉機1機(ノームエンジン・50馬力・フランス)、モーリス・ファルマン陸上機4機、
操縦者・搭乗員
13名(資料により誤差あり)が参加している。ニューポール機には機
関銃も搭載された。


図111 狗塔埠着陸場のニューポール機と陸軍航空隊


図112 狗塔埠着陸場のモーリス・ファルマン機と陸軍航空隊

 927には、ニューポール機(長澤・佐藤中尉)、モーリス・ファルマン機3号(真
壁中尉・武田少尉)、同
8号(坂本中尉・小田曹長)の3機が、ドイツ軍根拠地へ即墨
より出撃、初めて敵砲艦への海上爆撃を行った。(戦果不明) また、日本初飛行の
徳川大尉も、
104モーリス・ファルマン4号機で偵察飛行を試み、初めて実戦に
参加している。
 ドイツ軍前進基地の狐山・浮山の占領が完了しすると、陸軍航空隊は根拠地を狗
塔埠へ移転し、青島攻城戦へ向けて偵察・攻撃に活躍した。


113
日独戦役絵葉書
左下円内・陸軍航空隊指揮官徳川大尉、左上・モ式陸軍機


114
日独戦役絵葉書、飛行するニューポール機とモーリス・ファルマン機

 一方、ドイツ軍の飛行機は、最新型ルンプラー式1機(100馬力・ドイツ)が実戦に
参加している。ドイツ青島守備軍は
3機を配備と記録があるが、青島攻略戦にはギ
ュンター・プリュショウ操縦の
1機のみが参加したようである。機体の性能・操縦者の
技量ともに日本軍を上回り、日本軍の航空隊は相当手を焼いたようだ。

 
1013には、陸軍機3機、海軍機1機がドイツ軍ルンプラー機と、日本軍初の空
中戦を行った。両軍空中で機関銃等を使用しているが、損害は軽いものであった。
空中戦は世界的に実戦の記録が少なく研究段階であったが、
13の空中戦の報
告を受けた陸軍航空隊監督将校の一人は、「世界で議論中の、航空機による空中
戦の可能不可能については、可能である」と従軍記者達に述べたと記録されてい
る。

 その後、青島で幾度か空中戦が行なわれたが、撃墜等の記録は無い。また、青
島陥落直前
116プリュショウのルンプラー機は上海への脱出に成功し、日本軍
航空隊を悔しがらせたという。


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