日独戦争と俘虜郵便の時代 18
      03.03.13.

9) 戦利ドイツ潜水艦(その1)

 戦利ドイツ潜水艦については本来第二特務艦隊の項目で書くべきかも知れない
が、敢えて新しい項目で書いてみたい。

 ドイツは休戦条約(1918年11月11日)により、主力艦隊及び潜水艦全部を連合国に
引き渡す事となった。
同年11月16日ドイツ海軍は、スコットランド・フォース河口のロ
イサス軍港に於いて英国海軍ピーチー提督と協議し、
同21日よりスコットランド北端
のスカパフロー軍港に於いて、主にドイツ・キール軍港より回航した戦艦10隻、巡洋
艦6隻、軽巡洋艦8隻、駆逐艦50隻を連合国側に引き渡した。第二特務艦隊からも
第二十四駆逐隊より柳、檜が
11月28日から12月6日にかけて同地でドイツ艦船の
武装解除監視の任務に加わっている。また、ドイツ潜水艦140隻については、
11月
20日
よりドーバー海峡北岸イギリス・ハーリッチ海上に於いて英国海軍ターホイット
少将に引き渡された。其の他の艦船は、各根拠地にて武装解除されている。連合
国側に引き渡されたドイツ艦船の処置については、連合国による協議が難航した
が、潜水艦については若干数を戦勝国各国に戦利品として分配する事になった。
 
12月19日7隻のドイツ潜水艦が繋留港ハーリッチ軍港にて日本海軍第二特務艦
隊に引き渡された。当初イギリス海軍は、不慣れな計器類操作に加えドイツ側機関
兵の同行も無く、整備不良・機器損傷のあるドイツ潜水艦の日本までの回航を不可
能視していた。事実フランス海軍はハーリッチからフランス・カレー港まで回航する
のに一隻を沈没損失しているし、アメリカ海軍に至っては大西洋を無事横断回航す
る見込みが無いとして戦利潜水艦引受を辞退していた。第二特務艦隊は旗艦出
雲、檜、樫、杉、松をもって、
12月28日から翌1919年1月18日にかけて7隻全てをイ
ギリス・ポートランド軍港まで回航する事に成功し、同港及びポーツマス軍港で日本
までの回航に耐えられるように大修理を行い、第二特務艦隊の総力を結集し、フラ
ンス・ブレスト軍港、スペイン・エルフェロール港、英領ジブラルタル軍港、マルタ・バ
レッタ軍港(
3月25日全7隻マルタ集結)を経由して日本までの回航に挑戦する事に
なった。このドイツ潜水艦の日本までの回航補助船としては、マルタから潜水艦回
航特務艦関東が任務にあたり、
1918年11月16日に第二特務艦隊に編入された巡
洋艦日進
(図53)も加わり、1919年4月6日より第二十二、第二十三駆逐隊と共に順
次マルタ島を出港、途中ビスケー湾、土佐沖で暴風雨に遭うも無事
6月18日横須賀
港へ到着した。


図53

  
図54

 図54は、回航ドイツ潜水艦と共に帰国の途にあった巡洋艦日進の乗組員が、寄
港地シンガポールより東京へ差出した軍事加刷菊封緘葉書を使用した軍事郵便で
ある。この封緘葉書は日独戦争(青島周辺)とシベリア出兵時の野戦局での使用が
殆どで、このような海軍の南方差出内地引受便は非常に珍しい。差出日は
大正8
年(1919年)5月17日
、内地引受局は長崎で、櫛型・長崎/8.6.9./后0-2が押されてい
る。


図55

 文面(図55)を簡単に紹介しよう。「四月上旬モルタ(馬太・マルタ)お引上げ、帰国の
途について〜亜丁(アデン)・古倫母(コロンボ)・彼南(ペナン)と予定の航路順調に、
回航潜水隊と共に何等の支障もなく今朝新嘉坡(シンガポール)に到着仕り候。〜歴
史以来絶大大戦後も今更夢の醒めるたる如く武装商船も見いず平和に〜。是より
馬公(澎湖島)を経て月ならずして第一軍港横須賀へ到着の事に御座候。〜英領新
嘉坡に於て」第一次大戦最後の任務であろう戦利潜水艦回航任務に同行し、世界
大戦をしみじみと振り返っている、一海軍兵士の感慨無量な様が伝わってくる。


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