日独戦争と俘虜郵便の時代 15
      03.02.20.

8) 特務艦隊の活躍 地中海編(その3)

 シンガポールに揃った第二特務艦隊は、
1917年(大正6年)3月11日シンガポール
を出港、インド洋ではドイツ武装商船ウルフの捜索を行いながら、
17日コロンボ、29
アデン、4月7日ポートサイド、13日遂にマルタ島のイギリス海軍基地に到着し
た。
1800年マルタ島をフランスから奪取したのは、かの有名なネルソン提督である。
パリ条約により
1814年よりイギリス海軍の統治下となり、1979年3月12日撤退まで
イギリス海軍基地が置かれた。第二特務艦隊としての初出動(先遣隊杉・柏、両艦
4月12日マルタ着)は、1917年4月9日アレキサンドリア−マルタ間のイギリス輸
送船サキソン号の護衛であった。
 また、イギリス国王ジョージ5世直々の要請で、
同年6月1日新たに第十五駆逐隊
(桃級駆逐艦:樫、柳、桃、檜)、
6月20日には巡洋艦出雲も地中海に増派される事に
なり、
8月10日出雲と第十五駆逐隊はマルタに到着し、第二特務艦隊に加わった。
(出雲が第二特務艦隊旗艦となり、明石は
8月23日マルタより帰途につき11月4日
解任)加えて6月11日にはイギリス海軍の要請で、低速船護衛と遭難船救助を任務
としたイギリス海軍トロール船2隻(東京、西京)を特務艦として、さらに
9月20日イギ
リス駆逐艦ミストレル(駆逐艦栴壇)、
10月12日同ネメシス(駆逐艦橄欖)を期限付で
第十一駆逐隊臨時付属艦として、第二特務艦隊で引受ている。
 前にも述べたが、この第二特務艦隊は、
1年9ヶ月の遠征の間に、イギリス地中
海艦隊司令官のもと護衛及び対潜哨戒を行い、出動回数計348回、護衛船舶計
788隻・兵員70万人、被雷船舶より7,075人を救助する等、重要な役割を忠実にこな
した。輝かしい戦功としては、
1917年5月3日イギリス輸送船トランシルヴァ二アが
被雷した際、駆逐艦松、榊が同船より3,266名中約3,000人の救助に成功した事だろ
う。これが、地中海に於いて日本海軍がドイツ潜水艦と直接対峙した最初の戦いで
もあった。またその際、駆逐艦松も魚雷により損傷している。イギリス議会では日本
海軍への感謝決議が採択され、
5月5日に珍田捨巳駐英大使が、ウィンザー宮殿
に於いて、国王ジョージ5世より感謝の言葉を賜っている。

 
1917年5月22日駆逐艦楓の佐野茂七郎二等兵曹が激波により行方不明になり、
同遠征初の殉職者を出した。これを受けて
24日、それまで極秘任務として国民に知
らせなかった日本海軍の地中海遠征を日本政府は公式に認め、遠征の任務・行動
区域等の公表に踏み切った。これは日本軍の欧州派遣に反対の声が強い国内世
論に配慮し、より多くの犠牲者が出る可能性があるこの任務の存在を、早期に公表
せざるを得なかったからである。実際、
同年6月11日、カンジア海に於いて駆逐艦
榊が被雷して多くの戦死者(59名)を出している。(マルタ島に榊乗組員を含む同遠征
日本人戦没者78名の慰霊碑が建てられている)

 岸中尉は同艦隊司令附として旗艦明石に乗船していたが、駆逐艦松の士官が病
気の為帰国する事になり、トランシルヴァ二ア救助で負った損傷を修理後の駆逐艦
松に乗る事になった。
1917年8月10日第十五駆逐隊が出雲と共に増派合流する
と、第二特務艦隊では交代で短い休暇を取る事が出来た。岸中尉も
8月末、カイロ
観光へ出掛けピラミッドやスフィンクス等を見学している。また、
10月初めにはマル
セイユに寄港の際、数回に分けてパリ観光団が組織され、岸中尉もパリで束の間
の休みを満喫する事が出来た。もっともパリもドイツ飛行船の空襲を警戒する戦時
下にあった事は言うまでもない。

 
図45

 (図45)岸中尉がパリで購入した絵葉書数枚を軍事郵便の封筒で故郷群馬へ送っ
たもの。絵葉書
(図46)には大都市パリに驚いた事や欧州の戦局等が数枚に分けて
書かれている。差出は
10月30日駆逐艦松より、引受局は横浜で、
櫛型・横濱/6.12.12./后4-5が押されている。






図46

ご意見・ご感想は当社まで メール でお願い致します。 目次へ