第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 103      07.12.28

15) 松山俘虜収容所(その5)

(将校俘虜と前川所長)

 ここでは、松山収容所関連の注目すべき人物を、貴重な写真・資料と共に何人か
取上げてみたい。


239

 
239は、大正4年12月15日、ブッターザック中尉監督のもと、公会堂前広場で開
催された体操競技会のもようである。山越地区と大林寺の俘虜も一部観覧を許され
ている。良く見ると写真奥に収容所の日独代表者の観覧席が設けられているのが
見える。


図240

 
240はその観覧席で、右より第三海兵大隊第六中隊長ブッターザック中尉
(Conrad Buttersack・6K/VSB・Oberleutnant d.Mar.Inf.)、第三海兵大隊第五中隊
長クレーマン少佐(Eduard Kleemann・5K/VSB・Major d.Mar.Inf.)、松山収容所所長
・前川譲吉中佐、
一番左が海軍砲兵隊長シュテッヒャー大尉
(Georg Walter Stecher・MFB.Kdr.・Hauptmann d.Mar.Inf.)。


図241

 
この競技会の主催者であるブッターザック中尉は、収容所新聞(陣営の火)で第三
海兵大隊の歴史を紹介している。部下である俘虜たちからも人望があったようであ
る。板東収容所時代の、ブッターザック(注:階級は大尉)主催のビア・アーベントの
招待状(
241)が残されている。

 
クレーマン少佐は松山収容所では最高位の将校で先任将校を務めた、後の板東
収容所の先任将校でもあった。帰国時には「豊福丸」輸送船指揮官として神戸を発
っている。

 前川所長は軍規に厳しく、収容所の俘虜新聞(陣営の火)の発行を5号で禁止す
る等、一部俘虜達の評判も悪かった。名前の「マエカワ」から「マイケーファー」(コフ
キ黄金虫)という不名誉なあだ名が俘虜達に歌われている。板東収容所の松江所
長と比較されて紹介されることも多いが、近年の研究によって前川所長の再評価が
行われている。


図242

 
シュテッヒャー大尉は、
1907年陸軍少佐久邇宮那彦王のプロイセン陸軍留学の交
換として来日、日本陸軍へ編入された。東京の世田谷第十四砲兵連隊付武官とし
て山田耕三大尉らと親交を持ち、青島攻略戦では敵味方となった山田大尉と連絡
をとり、友情を確認したエピソードは良く知られている。(
図242)は、大正4年12月11
松山局発、シュテッヒャー大尉が香港のドイツ人へ六円を送った珍しい価格表記
俘虜郵便。松山収容所名入り郵便検閲印が押されている。直筆の差出人名は
“Hptm.Stecher,Matsuyama”とあり、日本人が補足した差出人名は“松山俘虜収容
所、ステハヘヤー大尉”とある。

(通訳俘虜クルト・マイスナー)

 第三海兵大隊第六中隊のクルト・マイスナー
1885〜1976・Kurt Meissner・6K/VSB)は、カール・マルクスの著書を最初に出版
したハンブルグの出版社主オットー・マイスナーの次男。ハンブルグ大学卒後、東
京八重洲口にシモン・エバース商会の資本援助でL.レイボルトが設立した「エル・レ
イボルト商館」(1905〜)の社員として来日、
1907年には2代目社長となり繊維、染
料、機械などの貿易会社として業績を伸ばした。
大正3年(1914年)8月、召集を受け
青島へ出征、青島陥落を迎える。青島ドイツ施設の日本軍接収作業でもその日本
語の能力を認められ通訳を任されている。松山・板東両収容所では「日語通」(通
訳)として活躍した。松山では「日語通」は白い腕章を付けている。


 板東では各種講義を持ち、大戦後も日本に滞在し、ドイツ東洋文化研究協会
OAG)の指導者として長く日独の架け橋として活躍した。


図243

 
243は、松山収容所のマイスナーら「日語通」の集まり。左から二人目がマイス
ナー。食卓には上等なワイン、食パン、ハム、ソーセージ等も見える貴重な資料で
ある。これが俘虜収容生活とはにわかには信じがたい。ワイン・ハム・ソーセージ等
の日本への普及・技術伝承(畜産・農業・食文化等)ではドイツ俘虜の貢献度が非
常に高く、日本残留ドイツ俘虜の起こしたドイツレストラン等の歴史と共に、これらの
研究も現在盛んに行われている。


244

 
244は、大正4年9月4日松山局発、マイスナーが八重洲のライボルト商館の
シュミットに差出した俘虜郵便である。収容所名入り郵便検閲印が押された、収容
所製通信葉書の使用例。漢字の宛名がマイスナーの語学力の高さを物語るが、
9月”を「八月」と書いているのはご愛嬌である。

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