日独戦争と俘虜郵便の時代 3      02.12.27

2) 日英同盟
 
 日本が第一次世界大戦に参戦した背景には、
1902年に日本とイギリスが結んだ
日英同盟の存在があった。ここでは、日英同盟締結に至る両国の立場を簡単に書
いておきたい。イギリスは19世紀末迄に、世界一の海軍力を武器にパックス・ブリタ
ニカ(イギリスの力に守られた世界平和維持)を実現してきた。しかしながら、20世紀
に入るとそのパワーバランスが崩れ、ロシア・ドイツ等の海軍力がイギリスを脅かす
ようになり、特に極東地域ではロシア海軍の優位が決定的になった。香港に植民地
を持つイギリスは、当初親清政策をとっていたが、極東の小国であった日本が日清
戦争において清国を破ると、その日本の海軍力に目を向けたのである。一方、日本
にとっても大国ロシアの脅威は明治以来続いており、ロシアが満州・旅順・大連と南
下すれば、次は日本へ来る事は明らかであり、イギリスと同盟が結べれば得るもの
は大きいと考えていた。イギリスが日本と同盟を結ぶ事を決心したのは、義和団事
件での日本陸海軍の活躍である。北京に篭城した列国兵士の救出において、日本
軍の勇敢さや軍紀に厳正な事が、横暴を繰り返したロシア軍と対比報道され、当時
まだ黄渦論が盛んに流布されていたイギリスの世論を、親日的な空気に変えてしま
ったのである。かくして、
1902年1月30日、日英同盟がロンドンで締結された。


図9

 図9は当時日本で作られた、日英同盟締結の記念絵葉書である。大きな体の英
国紳士が振袖姿の少女と握手するという、当時の日英の力関係が巧く表現されて
いる。イギリス宛のこの絵葉書には、前年に即位したエドワード7世の戴冠式(
02年
8月9日
、盲腸炎で延期されていた)への祝辞が書かれている。
 その後、、日本は日露戦争
(1904-05)に勝利し、ロシアの海軍力に大打撃を与え
世界屈指の海軍力を持つと評価されるに至った。一方、バルカン・アフガニスタン・
チベット・ペルシャ湾でロシアと対立関係にあったイギリスは、進んで日英同盟を更
新し、日本海軍の存在はイギリスの極東戦略に欠かせないものになったのである。


図10


図11


記念印@


記念印A


図12


図13

 (図10-13)1910年には日英同盟継続を記念して、イギリスのロンドンで日英博覧会
が盛大に催された。これらは、日英同時に作られた記念絵葉書の一部で、両国各
自記念消印
(記念印@・A)も使用した。

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