日独戦争と俘虜郵便の時代 2      02.12.26

1) 第一次世界大戦の勃発(その2)


図1
 
 郵便史から言えば、第一次大戦勃発が日本に与えた影響のひとつとして、ヨーロ
ッパと日本を結んだシベリア鉄道ルートが断絶した事が挙げられよう。
図1のカバ
ーは運良くこのルートをすり抜けたが、その後どうなっているのだろう。他に幾つか
この時期
(1914年7月中)の使用例をお見せしよう。


図5


図6

 図5・6このふたつの葉書は共に大正白紙が貼られた大連差出のドイツに宛てら
れたものである。4銭1枚貼の方は、
7月1日に大連を発し、
櫛型CHANGCHUN.2.7.14.の中継印が押され、無事シベリアルートを通りドイツ迄運
ばれた、特に珍しくもない使用例である。しかし、2銭2枚貼の方は注意して見て欲
しい。大連を発したのが
7月24日開戦4日前である。中継印である
櫛型CHANGCHUN.25.7.14.が押されルートに乗ったが、その途中で開戦によりシベ
リアルートが断絶した。ドイツがロシアに宣戦したのは
8月1日の事であった。どのよ
うな過程で返送されたのかは不明だが、櫛型CHANGCHUN.5.11.14.が押されている
ので、3ヶ月余りもウロウロしていた事になる。


図7


図8(裏面)

 図7の封筒は、大白20銭貼の書留便で、7月16日に東京四谷片町からオースト
リア・ハンガリー君主国のクラクフ(現在のポーランド南部の都市)へ宛てたものであ
る。
図1の封筒からたった3日後の差出日付だが、それが分かれ道となった。裏面
(図8)
を見て貰った上で、この封筒の辿った道筋を考えてみよう。少なくとも7月28日
直前迄シベリアルートが機能していたとすると、この封筒は通常の方法で日本海を
渡りシベリア鉄道に乗せられたと考えるべきである。日本から欧州まで普通は2週
間余り掛かるが、ぎりぎり間に合わず大戦が勃発、同ルートが断絶し、赤インクで
retour Tokio と仏語で差出人戻しの指定が書き加えられ、日本迄返送された。中立
国米国経由のヨーロッパ宛の再開は
9月19日(逓信公報告示)からで、米国ニューヨ
ークの中継印が
11月4日であるので、日本に返送となったのは、おそらく10月半ば
頃ではないだろうか。そして、Via Siberia の指定が乱暴に消され、米国経由で再び
送られる事になり、ニューヨークに
11月4日に辿り着いた。米国からはイタリア・オラ
ンダ・デンマーク経由等の可能性が考えられるが、手元に資料がないので断言出
来ない。次に現れる日付としては、クラクフの到着印だが、米国から5ヶ月以上も経
った
翌1915年5月19日と同28日の印である。この間に何があったかは、宛名の地名
が教えてくれた。クラクフのあるガリツィア地方は当時ロシア帝国とオーストリア・ハ
ンガリー君主国の国境にあたり、
1915年初めからロシア軍とオーストリア軍の最前
線であった。俗に、ガリツィア戦線といい、
3月22日にはオーストリア軍はロシア軍に
大敗北を喫した。ようやく
5月2日になって、ドイツ軍も加わったオーストリア軍はロ
シア軍に大攻勢をかけ、ガリツィア地方の堅守に成功したのである。この封筒には
クラクフのオーストリア軍の検閲印と、ポーランド語とドイツ語で宛名不明警察未登
録の検印(裏面)、郵便物調査事務所の印(表面赤印)が押されている。受取人は避
難してしまったのだろうか?とにかく、5月半ばになってようやくこの地方に軍事郵便
以外の郵便が配達出来るルートが確保されたのである。
 長くなってしまったが、これら
1914年7月中に日本発、ヨーロッパ宛ての郵便物は
要注意である。ここに挙げたいずれも、第一次大戦の勃発とシベリアルートの断絶
を語るには、充分な使用例だろう。


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